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Gのレコンギスタが「よくわからない」と言われるのは何故なのか?

 富野由悠季が満を持して世に送り出した、ガンダムシリーズ最新作「Gのレコンギスタ」。でもなんか「よくわからん」とか言われてるみたいじゃないですか。実際、私も良くわからないと思うんですけど。
 ただ、「わからないから面白くないのか?」というと、別にそういうわけでもない。いや、ぶっちゃけ「これ面白くないんじゃない?」と感じたことは何度もあったんですけど、視聴者をぐいっと引き込むパワーがあると思うんですよ。でも、「よくわからん」と言われれば、確かによくわからない。
 実のところ、この「よくわからない」という表現も、あまりしっくり来ないんですよね。より正確に表現すると、「作品全体から違和感のようなものを受け取ってしまって、本当に面白いのかどうか、判断しかねている」という感じでしょうか。少なくとも私にとっては、「Gレコ」というのはそういう作品です。
 この、なんともスッキリしない印象を受ける「Gのレコンギスタ」という作品。何故、そんな宙ぶらりんなイメージを持ってしまうんだろう? Gレコも終盤に差し掛かった今、それをちょっと考えてみようと思って筆をとった次第です。
 あくまで、「個人的にはこうなんじゃないかと思った」という記事なので、お読みになる際にはそれを念頭においていただけると幸いです。ついでにいうと、この記事のために話を見返したりもしてないので、なんか大味な記事になってると思います。

■そもそも、Gレコというのは「どういう系統」の作品なのか?
 Gレコというのは、賑やかな作品です。言い換えるなら、さまざまな人物に次々とスポットが当たっていく、落ち着かない作品なんですね。
 いわゆる「群像劇」という作品にあたるもので、一応「ベルリ」という主役はいるけれども、その主役にばっかりスポットが当たるわけじゃない。ベルリにスポットが当たったかと思えば、アイーダにスポットが当たったり、かと思えば敵役にスポットが当たったり。
 この「スポットの転換」が、30分の中でめまぐるしく行われているわけです。
 で、
 やっぱり、Gレコが「よくわからない」作品だと感じやすいのは、これが原因だと思うんですよね。

■「めまぐるしいスポットの転換」によって、何が起こるのか?
「スポットの転換が原因」と一言で括っても、「大雑把すぎ、もっと詳しく」という感じなので、もうちょっと具体的に考えてみます。

1.1話ごとに提供される「キャラクター性」が薄くなる
 登場するキャラクターひとりひとりにスポットが当たること自体は、別に悪いことではないはずです。キャラクターを描写することで、そのキャラクターに深みが加わり、物語に感情移入しやすくなるはずだからです。でも、Gレコはたった30分の中で、スポットを当てるキャラクターが多すぎと思うんですよ。
 例えば、30分の枠だったら、しっかりキャラクター性を描写できるのって1、2人が無難な数だと思うんですよね。3、4人を同時にっていうのはいかにも多い。
 メインキャラクターが4人いたら、じゃあ1話でABCDの全体を見せて、2話でABをやって、3話でCDをやって、みたいな見せ方をしていくと、見ている方もすんなりと情報が入ってきやすいと思うんですよ。
 数字でいうと、1話でABCDの情報を25パーセントずつだして、2話と3話でAB、CDの情報を50パーセントずつだして、4話以降、個別回で最後の25パーセントをだして、みたいな。
 でも、Gレコの場合は1話ごとにスポットを当てるキャラが多いんです。ベルリ、アイーダ、ノレド、ラライア、マスク、クリム、その他モブみたいな感じで、とにかく色々なキャラクターが、30分の間で「主役」になる。
 この結果、「1話ごとに提供されるキャラクター性が薄まりすぎている」という問題が起こってしまっているんですね。
 さっきのように数字で例えるとすると、1話ごとに提供されるキャラクター性は、そのキャラクター全体の5パーセントとか、下手をすると2、3パーセントとか、その程度なんじゃないかと。だから、見てる方としては(特に序盤は)キャラクターを理解することが難しくて、「何これ?」となってしまいやすいんじゃないかなーと。
 逆に、今は大分積み重ねができてきた頃です。なので、各キャラクター像がそこそこ固まってきて、見やすくなってきているんじゃないかと思います。

2.世界観に対する説明が圧倒的に足りない
 視聴者に世界観を理解させる方法としては、話の中で、無知なキャラクターに質問させて、それに対して「詳細に」答えさせる、というやり方が一番手っ取り早いと個人的には思っています。でも、Gレコの場合はそういうのがほとんどないですよね。
 Gレコは、「登場人物に世界観を1から10まで説明させる手法」はとってないと思うんですよ。何でかというと、先述の通り、Gレコは30分で色々なキャラクターにスポットを当てます。ぶっちゃけ、そうすると「世界観の説明」とかしてる暇ないと思うんですよね。
 世界観の説明なんてしようものなら、その分、ただでさえ薄いキャラクター描写がさらに削られてしまう。なので、Gレコでは「まったくの無知」というキャラクターは(多分)いません。
 みんな、何かしらの情報は持っていて、さらっとした説明だけで済ませてしまう。もしくは、「情報を持っているキャラクター」だけがシーンをリードして、そのシーンを終わらせてしまう。結果として、視聴者は世界観を説明されないままになってしまって、頭の上に疑問符を浮かべることが多くなってしまう、という具合なんじゃないかと。
 Gレコは、登場人物の言葉の端々や行動から、世界観を読み取れ! というような作品として作ってるんだと個人的には思います。まあ、ぶっちゃけ言うと「登場人物に世界観を説明させる手法」って、ダサいですしね。
 ただ、それが成功しているかといわれると、「うーん……?」と首を捻らざるを得ないかなぁ、とも思います。
※金星周辺は情報を持ってないキャラクターが多いので、最近はちょっと丁寧に説明してるかも……

3.「キャラクターの心情」と「シーン全体の雰囲気」が、必ずしも一致しない
 個人的には、これが1番問題になっているところだと感じているんですが、Gレコにおいて、シーン全体の雰囲気とキャラクターの心情は、必ずしも一致しているわけではないんですね。
「キャラクターの心情」と「風景」は、リンクしてる方が読み手に伝わりやすい、というのを国語で習った覚えのある方は多いと思います。「登場人物が悲しい気分のときは、曇り空だったり雨だったりする」みたいなやつです。いわゆる「この時の○○の気持ちを答えなさい」ってやつ。
 ところがGレコの場合、スポットが当たるキャラクターが頻繁に変わりまくるので、「シーン全体の雰囲気としては明るいが、特定のキャラクターだけは激しく落ち込んでいる」みたいなチグハグなシーンが多いんですよね。
「フレームのある宇宙」だと、勇ましい(コミカルな?)音楽で出撃準備をしているシーンで、無力なノレドがベルリに対して距離を感じて切なさを覚えているところとか。
 その前の話だと、ベルリがレイハントンコードのシステム設計から両親の愛情を感じつつも、アイーダが姉であることを認めきれないシーンの直後に「流星を狙撃します」とかいうシーンが続いたりだとか。
 全体的に「え、そこでそれ挟んじゃう?」とか「このシーンで何でその心情を吐露したの?」みたいなシーンがすごく多いんですよね、Gレコ。特に、「重い」場面ほど、コミカルだったり、別な雰囲気で上書きされることが多いように思います。
 これは、「群像劇」として作られているからこういう風になっているのかもしれませんが、シーンに統一感が出ていなくて、個人的には失敗してるんじゃないかなぁと感じています。
「Gレコは楽しい話にする、と富野監督が言っていた」というのをよく聞くんですけども、「楽しい話」と「重苦しかったり、悲壮な雰囲気のシーンを(無理やりにでも)作らないようにする」のとは、違うんじゃないかと思うんですよね。

■こうした小さな違和感が積み重なり、全体のイメージをぼやけさせる
 Gレコが「よくわからない」作品だと感じるのは、こうした小さな違和感が積み重なった結果なんじゃないかと、個人的には感じます。
 シーンに対する違和感が拭えず、世界観も大して理解できず、キャラクターも描写が薄い、となると、見ている方としては「うーん、よくわからない」となってしまっても、これは仕方ないだろうなぁと。
 今現在、Gレコも終盤に差し掛かってきていて、世界観やキャラクター描写などの「足りなかった部分」が視聴者の中で構築されつつあります。なので個人的には、最初の頃と比較すると、大分素直に「面白い」という感想を出しやすくなっています。
 こうして考えてみると、Gレコはピース数の多いパズルのようなものなのかもしれません。当初はバラバラで、「こんなもんわかるか!」と投げ出したくなるような作りだったものが、今ようやく完成を迎えつつある。
 というわけで、ここまで見てきたわけですから、その完成を見届けようと思います。
 完成したものが「いいもの」なのか「うーん、微妙」なのかは、とりあえず完成してみてからの判断ということで。