さて、ガチャ論後編である。
前編はこちら。
前編は実践的な方面での話になったので、後編は「精神的な面でのガチャとの接し方」に触れていきたいと思う。
■『人生観』を構築するガチャ
ガチャとは、人生そのものである。
人はガチャを回す前、その結果に夢と希望を抱く。しかし、回したあとには、極少数の成功したものと、多くの夢破れたものしか、そこにはいない。
人生は期待したとおりにならず、いくら努力したとしても、望んだ結果を得られることは稀である。
ガチャは、そうした人生の無常を教えてくれる。
ただ漫然と流され、人生の岐路で曖昧な決断を下した人間に、それを後悔する資格があるだろうか?
同様に、ガチャをその場の衝動で回すことを決めた人間が、結果を見てから「回さなければ良かった」と後悔する資格があるだろうか?
だからこそ、ガチャを回すときには計画を立て、備えなければならない。
そして、望んだ結果を得られなかったとしても、「そういうこともある」と、その結果を受け入れる心構えをしておかなければならない。
しかし、何事にも例外はある。
それは、”金”の力である。
”金”を持っているやつが”強い”。ガチャは、そうした人生においてもっとも大切なことも教えてくれる。
■精神修養としてのガチャ
ガチャにつきものなのが、「ガチャを引きたいという衝動」と、「他人のガチャ結果を羨む心」である。
前者について、この衝動は抗い難く、定期的に襲ってくる。まさに麻薬のようなものである。
恐らく、イエス・キリストやブッダといった聖人も、当時ガチャがあったなら、悟りを開くのが10年は遅れたであろうことは想像に難くない。
しかし、何回も触れているとおり、このような刹那的な衝動に身を任せていては、本当に望む結果は得られない。
この衝動を飼いならすことが、ガチャと付き合う上では必須となってくる。
後者について、これもまた、ガチャと付き合う以上、避けては通れない感情である。
しかし、当然だが、いくら羨んだところで望んだものが手に入るわけではない。
人は皆、孤独である。
他人は他人、自分は自分と、ドライに割り切る考え方を養っていかなければならない。
他人を羨み、身の丈を超えて行動するものに待つのが破滅であるのは、ガチャも人生も同じである。
思い返せば子供の頃、友達の持っているおもちゃやゲームを羨んで親にねだった時、こう言われたことはないだろうか?
「よそはよそ、うちはうち」
当時は、「体よく断るためにそれっぽいことを言いやがって」と思ったものであるが、今こうして考えてみると、まさしくそれは真理である。
親は偉大であるということも、ガチャは教えてくれる。
■自己満足を得るためのガチャ
ガチャには、様々な癖がある。
これは、より深くいえば、「ソーシャルゲーム」というゲーム自体に、いわゆる「意図しない裏技」のような挙動がある場合がある、ということである。
私がこれを知ったのは、今はもうスマホゲーとしては終了してしまった「拡散性ミリオンアーサー」というゲームをプレイしているときのことだ。
拡散性ミリオンアーサー(以降、拡散性MA)は、異様にテーブル設定がガバガバで、数々の「検証」が容易に行えるゲームであった。
例えば、拡散性MAのメインコンテンツは、「強敵」と呼ばれる敵をマルチバトルで倒すことだ。
強敵を倒すと目玉カードや、スタミナ回復アイテムなどがドロップする。自分が発見した強敵を倒すとレベルが1ずつあがっていき、段々強くなっていく仕様だった。
拡散性MAは、その強敵が落とすアイテムのドロップテーブルが「自分の強敵レベル」で固定されているらしく、特定のレベル帯に固定したまま他人の救援に入ることで、高確率でスタミナ回復アイテムや目玉カードをドロップさせることができた。
また、強敵に出会うためにはとにかくマップを歩き回らなければならないのだが、普通にやっていてはスタミナを全て使っても強敵に合うことが難しかった。
しかし、マップに入ってから約3秒で進むボタン(というか、画面をタッチすれば進んだような気がするが)を押した場合、高確率で強敵に遭遇するという仕様になっており、これを知っているのと知らないのとでは、イベントで消費する回復アイテムの数がまったく違った。
更に、歩きまわっているとランダムでスタミナが回復したりする仕様だったのだが、これも強敵と同様に特定タイミングでボタンを押すと高確率で狙うことができたため、回復アイテムを使わずともスタミナを全回復させることすら容易だった。
ガチャも同様で、SSRは特定の時間帯にしか出現しない、という検証結果が、有志たちにより導き出されていた。
後に、拡散性MAと全く同じシステムを採用したTKSSIS(伏せ字)というゲームにおいて、ガチャにフィーバータイムがあることが確認されており、恐らくこうしたシステムを応用したものだと考えられる。
また、某ゲームではかつて、ガチャを引く際に「正確な時計を用意しろ」という格言が存在しており、これもまた、高確率で高レアカードを引くための方策であった(これは、今では対策を取られてしまって不可能である)。
このように、人間が作るものである以上、「何がしかの偏り」や「穴」というものが存在することがある。
こうした偏りを発見し、仮説の組み立て>実地検証>成果>結論という流れを楽しむことが、ガチャは可能なのである。
ただし、注意しなくてはならないのが、こうした検証結果は、どこまでいっても「オカルト」であるということである。
ガチャの仕組みが正確に解明されていない以上、どんな説であろうと「オカルト」でしかない。
オカルトをさも「絶対にこれが正解」と主張したり、「知らないほうがおかしい」というような言い方をするのは間違っている。そのことには十分留意したい。
しかし、冷静になって振り返ってみると、本当に楽しみなのだろうか?
まさに自己満足としか言いようがないが、そういう楽しみ方もあるという一例として挙げておく。
■最後に
ガチャとは、コミュニケーションのツールに成り得る手段である。
しかし、その本質は「孤独」である。
ガチャを回す決断をしたのは己自身であり、その結果と向き合うのもまた、常に己独りである。
もちろん、これはガチャという娯楽に接する上での心構えのひとつだ。
それぞれに、ガチャに対する独自のスタンスがあるだろう。
それを構築する際に、この文章が賢明なる諸氏の一助となれば幸いである。