「君、影薄いね」と貴方は言った

ネットの片隅に生きるだらだらしたアラフォーブログ

FGOについて考える

■まえがき
 2018年も12月となり、今年も残すところ、あと僅かである。皆さんはいかがお過ごしだろうか?

 

 ふと今年を振り返ってみると、まったくブログを書いていないことに気がついた。
 そこで、今回は大人気ソーシャルゲーム、『Fate/Grand Order』(以下、FGO)をテーマに、ブログを書いてみようと思う。

 昔ながらの私のファンの方(いない)には、私がFGOについてブログで取り上げることを驚く方もいらっしゃるかもしれない。何故なら、私は常日頃、FGOをボロクソに貶し、怒りを露わにしているからである。

 誤解のないように言っておくが、「私が実は、FGOを内心で高く評価していた」ということは一切ない。私がFGOを今回取り上げたのは、ひとえに、自分にとってどうしようもない無価値なものを再解釈し、そこに全く新しい価値を見出すことが、告白実行委員会を見て以来の私の趣味となっているからである。

 

 ところで、書き上がってから読み返してみたのだが、さっぱり面白い部分がなかったので、年の瀬に暇を持て余して仕方のない方以外はブラウザを閉じることをおすすめしたい。

 

■はじめに

 

 まず最初に、FGOの何について解釈を行っていくのか、明言しておく。
 今回行うのは、FGOのストーリー部分についての解釈である。
 具体的には、3つの章で構成される「幸福論」と、1つの「妄想」でる。
  
 本来であれば、私はこうした解釈・評価を好まない。
 何故ならば、壮大なタペストリーの一部分だけに着目し、「あれが良い」「これがダメ」と評価することは、まったくナンセンスだからである。
 
 現在のFGOのストーリー(ここでは第二部を指す)は、その全体像を把握できる段階にない。この段階で物語の是非を論じたり、あるいは解釈を行うことは、後の物語が明らかになった時、冷静な視点でそれを受け止めることができなくなる可能性がある。
 
 しかしながら、同時に、今、この瞬間しか味わえない楽しみというものもある。
 それは要するに、ヴィーナスの欠けた腕に浪漫を見出すような――つまり、全体像が不明瞭だからこそ行える、無責任な放言や妄想、そういった類の楽しみ方だ。普段であればこうしたことは自分の内側に留めておくのだが、まぁたまには、マッチに灯った揺らめく炎を、ただぼうっと眺めるような、そんな一瞬の儚い楽しみを、文章として書き残しておくのもいいだろう。
 
FGO的『幸福論』・1 ―選び取ること―


 私は、FGO、特に第二部の根底に流れるテーマは、「人の幸せ」にあると思っている。そして、そのテーマに繋がるキーワードのひとつめが、「選び取ること」だ。これは、「自分の世界を生かすために、他者の世界を滅ぼす」という主人公たちの選択もさることながら、「異聞帯」という設定や、そこに暮らす人々からも見て取れる。 

 

 多くの方はご存知だろうが、異聞帯とは「可能性の閉じた歴史」のことを指す。
 つまり、異聞帯とは滅亡という結末以外をもたない、歴史の方向性を選び取れない世界のことである。

 

 また、そこに暮らす人々も、「選べない」不自由な生活を強いられていることが多い。

 

 これまでの異文帯では、そのほとんどが共同体単位で隔絶されており、共同体同士のつながりというものが薄い、あるいは見られなかった。これはつまり、「共同体の中でしか生きられない」ということである。誰もが顔見知りであり、一度ついた評判が常につきまとう――そんな世界から逃げることすら選択できないのは、いかにも不自由で、息苦しい。

 

FGO的『幸福論』・2 ―識ること―

 

 しかし、そうした、私たちから見れば不自由で息苦しい世界に生きる人々が、異聞帯では幸せに生活しているのである。ロシアの住民は幸せとは言えなかったかもしれない。それでも、世界そのものを疑い、否定するような人間は存在しなかった。

 

 考えてみれば当然で、彼らにとってはその世界が「当たり前」であり、それ以外の世界など知りようもないのだ。であれば、たとえそこがどんな世界であったとしても順応して生きる他ない。

 

 逆に、「別の生き方もある」などと教えるほうが、酷なことだろう。何故なら、他者の暮らしを知ることは、他者と自分との「差」を認識することに繋がるからである。その差が、自分にとって優位であるならまだしも、劣位であった場合には、自分が「不幸」であることを知ってしまうことになるからだ。

 

 何も知らず、満足感の中で生きること。
 自分には手に入らないものがあると識り、辛く、苦しい想いをしながら生きること。
 皆様は、どちらの方が「幸せ」だと思うだろうか?
 
FGO的『幸福論』・3 ―幸福論―

 

 FGOは、「例え辛く、苦しい道を歩むことになっても、識ることが重要だ」と説いている。想像でしかないが、FGO的な「幸福」とは、「選択」にあるのだろう。細かな説明が難しいので、一部で揶揄される「マシュの言動」を例にとって説明したい。

 

 FGOの二部二章で、マシュが「人はもっと生きられるのに、何故若くして死ぬことを受け入れるのか?」と異聞帯の住民に問うシーンがある。これは、FGOアンチによく取り上げられる、問題あるシーンのひとつである。

 

 何が問題と言われているのか?

 

 それは、マシュ自身が、「限りある生命しか持たない」キャラクターだったからだ。
 第一部後半、マシュは自らの命に先がないことを悟りつつ、それでも戦いに身を投じた。「永遠に生きられるとしても、わたしは永遠なんて欲しくない」――そう言って、自らの限りある生命を肯定したマシュが、同じく若くして命を散らそうとする存在に対して、「普通はもっと長生きできるのに死ぬなんておかしい」というようなことを言い出した。これに対して、「発言が矛盾しているのでは?」と言われているのだ。

 

 しかし、マシュと北欧の住民とでは、大きく異なる点がある。

 

 それは、北欧の住民が「長く生きられることなど知らず、若くして死ぬことを当然だと受け入れている」のに対して、マシュは自らの死期を悟り、何がしかの手段を講じれば、もう少し自らの命を長らえられると識った上で、”自らの意思で”自らの死を選択しているということである。

 

 繰り返しになるが、ただ「識る」ことが、幸福に繋がるわけではない。だが、「識る」ことで、人は『選択』することが可能になる。その『選択できる』という状態こそが重要であり、どのような選択であろうと、『自らの意思で決定する』ことこそが、人間として正しい、幸福なあり方だと、FGOは言っているのだと私は考える。

 

■ヲタクの妄想

 

 ここからはFGOの第二部ストーリーについて、妄想を述べていく。
 こうした妄想は、大体、次の章がリリースされれば完全に否定されるのが常である。また、そもそも作りて側がそこまで考えていないことも多い。ただ、現時点での「ぼくのかんがえたさいきょうのFGO」を披露するのもたまにはいいかと思い、ここに書き残しておく次第である。

 

 さて、FGOの第二部について個人的にもっとも気になる点といえば、サイコパス主人公である。主人公は、自らの世界を存続させるため、他の世界を滅ぼしていくわけだが、何故か現地民と交流したがる。作中でも指摘されていたが、どうせ滅ぼすのであれば現地民と交流する必要は一切ない。しかし、「相手のことを知って覚えておくことが、滅ぼす相手への礼儀」のような意味不明な理屈で、現地民にたっぷり思い入れを作ってから、その世界を滅ぼすのである。

 

 はっきり言って完全にサイコパスで、全く理解できないわけだが、その謎理論を考える最中、ふとした閃きが頭をよぎった。

 

 それは、「異聞帯は本当に滅びるのか?」ということである。
 
 大前提として、異聞帯は滅びゆく世界である。説明によれば、異聞帯では進化の先が不動のため、「面白みがない」と判断され、宇宙的なエネルギーの供給がストップされ、次第に滅ぶということらしい(正直、全くわからない)。

 

 逆に、汎人類史は様々な可能性を秘めた世界であり、未来は常に不確定、5キロメートルinミストである。どうやら、世界にとってはそちらの方が好ましいらしく、宇宙的なエネルギーはそちらの方に注入されるから100年経っても大丈夫ということらしい(正直、全くわからない)。

 

 異聞帯は、この「宇宙的なエネルギー」に満ち溢れた汎人類宇宙に乗り換えすることで、エネルギー枯渇という「滅び」を回避したいという狙いを持っている。その企てを阻止することは、「滅びゆく宇宙」に異聞帯を送り返すことに他ならず、結果として異聞帯は滅びるわけである。

 

 しかし、
 しかしだ。

 本当に、企みを阻止された異聞帯は滅びるのだろうか?

 

異世界を滅ぼす」というのは、そう言われているだけである。「元々、滅びる予定だった世界なので、元の世界に送り返せば結果として滅びる」――ということなのだろう。だが、誰もそれを見たものはいない。

 

 そして、よく考えてほしいのだが……企みを阻止され、元の世界へ送り返される異聞帯は、しかし、”最初とは決定的に状況が異なっている”のではないだろうか?

 

 異聞帯は、長命な統治者によって支配され、世界の在り方はその統治者によって決定されていた。統治者は不滅であり、故に、世界の在り方は永遠に変わらず、結果として世界に可能性は存在しなかった。

 

 しかし、汎人類史との闘争の結果、”世界の在り方を決定していた統治者は滅び”、その世界の在り方を規定するものはいなくなった。そして、人々は、それまで識ることのなかったものを――音楽を、詩歌を、春の訪れを手に入れた。

 

 元の世界のままであれば、確かに滅びを待つばかりであったろう。
 だが、もはや異聞帯は、元々あった世界とは似ても似つかない世界に変貌した。

 

 そして、覚えているだろうか?
 英霊の存在しなかった世界が、ただ数人の”祈り”によって変容したことを。
 世界は変わる。それも、とても簡単に。


 であるならば――これだけの大きな変化がもたらされれば、決まっていたはずの「滅び」という結論が覆らないと、誰が言えるだろうか?

 

 もちろん、これは放言、妄想である。
 それでも、こうした「if」を考え、そうだったらいいのになと思うことを、私はやめられないのである。