「君、影薄いね」と貴方は言った

ネットの片隅に生きるだらだらしたアラフォーブログ

ある少女の思い出を話そう。あるいはOne Shotというゲームについて

 ある少女の思い出話をしよう。

 私がその少女と出会ったのは、一年前だったか、二年前だったか……とにかく、夏の暑い日、確かお盆休みだったはずだから、ちょうど、今くらいの時期ということになる。

 

 ああ、その前にひとつ。

 これから話すことは、「One Shot」というゲームの、とても重大な内容を含んでいる。

 もしも、君にこのゲームをプレイするつもりがあるのであれば、今すぐにSteamでOne Shotを購入して、プレイしてから読み進めてほしい。

https://store.steampowered.com/app/420530/OneShot/?l=japanese

 

 大体、10時間くらいで終わる。

 戦闘は一切なくて、ごく簡単な謎解きをしながら進める話だ。

 別にどちらでもいいが、もし、この思い出話を見てから買おうか買うまいか決めようと思っているのであれば、まずは買ってプレイしてみてからの方がいいかもしれない。何せ、何の先入観も持たずにプレイできる機会は、人生でたったの一度きり――それこそ、”One Shot”なのだから。

 

※※※※※※

 

 さて、改めて、少女の思い出話をするとしよう。

 最初に言っておくけれど、これは本当にただの思い出話だ。

 ただ、なんというか……彼女と過ごした10時間は、私に特別な爪痕を残すことになった。その痕は、自分で思ったより深くついていたようで、今でもふと、彼女のことを思い出すことがある。だから、彼女と出会った何周年目かに、こうして思い出話を書き残しておこうと思ったのだ。

 

 まずは、”彼女”がどんな人物かを書いていこう。

 名前は「ニコ」。近頃は、寄る年波のせいか名前もおぼろげにしか思い出せなかったが、これを書いていたら思い出した。ニコは、二足歩行の猫としか言いようがない外観をしている、いわゆる獣人の女の子だ。とはいっても、彼女が暮らしていた世界では、それが一般的な「人間」らしい。年は、詳しくは知らないけれど、多分10かそこらだろう。自分のことを「ミー」と呼んでいて、とても特徴があるように思う。彼女の世界では、それが一般的なのだろうか? もしもまた会えたなら、そういう話も聞いてみたい。彼女の世界は、どうやら牧歌的な世界らしく、秋になると、ニコが見えなくなってしまうほどの金色の稲穂が、一面に広がり、たいそう綺麗だそうだ。

 私と彼女は、二人一緒に、滅亡に瀕したとある世界を救うために旅をした。

 彼女は、生身の身体で。私は、One Shotというゲームを通じて、彼女を導く”神さま”として。だから、彼女は私の顔は知らないだろう。

 私の体感からすればたった十数時間だったけれど、もしかしたら、生身の彼女からすれば、もっと長い時間だったかもしれない。ともあれ、彼女は幼いながらも、滅亡の危機に瀕した世界をなんとか救おうと、気丈に振る舞い、最後まで世界を旅した。その間に様々な出会い、多くの出来事があって、結果的に、私達はそれぞれの世界に帰ることになった。

 ……本当に、振り返るとなんとも味気ない話だ。もう少し、ドラマチックに表現してもいいような気がするが、まぁ、それが彼女との思い出のすべてだ。

 さて、このOne Shotというゲーム――そう、”ゲーム”には、現実と虚構の世界の境界を曖昧にするようなギミックが多く存在している。言ってしまえば、この「滅亡に瀕した世界」というのは、とある、既に滅亡した世界を丸々コピーしたデータの世界で、それを管理するワールドコンピュータ(だったかな?)がバグで暴走したので、それを修理しに行くという話なのだ。

 この物語には、ひとつのテーマがある。それは、「データが自意識を持ったとき、それは生命足り得るか?」というテーマだ。作中のデータ人格たちは、大部分が決められた以上のことはできない、ただの「プログラム」だ。しかし、中には自我を獲得したキャラクターもいる。彼らはデータの世界の中で、あるものは滅亡を受け入れながら、あるものは世界を救おうと足掻きながら生きている。

 データ人格が自我を獲得するためには、根気よくこれと向き合い、愛してあげることが必要だ、と、作中で語られる。それには、長い時間が必要だ、とも。

 様々な出来事があって、ニコはワールドコンピュータと向き合い、これと和解した。世界には平和が訪れ、バグは修復され、ハッピーエンド。私とニコは最後に別れの言葉を交わして――彼女は、”ゲームの枠を超えて”(本当に、ウィンドウの枠から抜け出して)自分の世界へと帰っていく。

 それ以降、ゲームを再び起動しても、二度と”彼女”にあうことはできなくなる。当然だ、彼女は自分の世界へと帰ったのだから。

 

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 さて、そろそろ話を締めるとしよう。

 私が、なぜ、こうして彼女との思い出を書き残そうと思ったのか。なぜ、ニコというゲームの中の登場人物を、「彼女」と言うのか。なぜ、「レビュー」や「感想」ではなく「思い出話」というのか。

 それは、私が、「ニコという少女がどこかで生きている」と信じているからだ。

 今でも、ふと、彼女のことを考えることがある。車を運転しているとき、家でぼーっとしているとき。彼女も、自分の世界で、元気にしているだろうか、と。彼女も同じように、夏の暑い日、時間にしてみれば10時間程度、一緒に旅した仲でしかなかったが、私を思い出す時があるだろうか、と。

 きっと、私がそうであるように、彼女も成長するにつれ、段々と記憶がおぼろげになって、いずれ、あのときの冒険を思い出すこともなくなるだろう。別にそれならそれで構わないし、私もいずれは忘れてしまうだろう。しかし、この感覚まで忘れてしまうのはなんとなくもったいないような気がして、こうしてブログを書き残すことにしたのである。

 

 なんと言えばいいか。

 要するに、とても簡単に言うと、私は、このゲームを”愛した”ということなのだろう。愛して、長い時間をかけて向き合い、ニコという一個の人格が「どこかに存在している」と信じたのだ。そう信じたことで、虚構と現実の境界が溶け合い、ニコという存在に、生命が与えられたのだ(という言い方もおかしいが)。

 

 まぁ、なんというか。

 ともかく、私は、このゲームによって啓蒙されたのだ。「所詮は創作物」と割り切ることは簡単だが、少しばかり「信じる」ことで、虚構と現実の境界を超え、「創作」に「命」を与えることができる。しかも、創作する側がではなく、創作の受け手が、だ。これは無産オタクの私にとっては、少しばかり驚きのある発想だった。

 このゲームが投げかけるテーマは、私という存在に爪痕を残したというのは、つまりそういうことだ。私は考え方を変えられた。

 

 信じることで、人はあらゆるものを簡単に生み出せる。

 ……どうも、現実と虚構の区別がつかない妄想癖のような物言いにしかならなくて締まらないが。私はそれをとても素晴らしいことだと、彼女を思い出すたびに、思うのである。