「君、影薄いね」と貴方は言った

ネットの片隅に生きるだらだらしたアラフォーブログ

2018年を振り返り、2019年の目標を立てる

 2018年は、一言でいえば”冴えない”年だった。
 何がどう冴えなかった、と具体的に言えるようなことはない。何か特別なイベントが発生して気分が落ち込んだとか、体調が優れなかったとか、そういうわけではない。ただ、何となく過ごして、何となく一年が終わりを迎えた、強いていえば「何もなかった」一年だった。
 
 言葉にすると大したことがないように聞こえる。
 しかし、この状態が続けば、私の精神は近い内に死ぬだろう。
 
 何故、何もなかったのか。それはひとえに「行動を起こさなかったから」からだ。
 本を読む、音楽を聴く、映像を見る――およそ、そうした行為を、2018年は何一つ起こさなかった。やっていたことといえば、だらだらとソーシャルゲームをやっていた程度である(断っておくが、別にソーシャルゲームをやっていたことが悪いとは思ってはいない)。

 何故、行動を起こさなかったのか。
 それは、「何事にも興味がわかなかったから」だ。
 もちろん、「あれが面白そうだ」「これが面白そうだ」と思うことはある。しかし、実際に行動を起こして、それを「楽しむ」(=体験する)ことまではしなかった。積極的に自分から取り組まないのだから、特別なことなど起こりようもない。
 
 とにかく、様々なことを「やっても無意味だな」と捉えてしまうようになった1年だった。
 無意味というのはつまり、感受性が摩耗し、コンテンツを摂取したところで、「それが何の足しになるのだ」と思ってしまうような。何かをやろうとしたところで、「こんなことをしたところで、これが誰に影響を与えるわけでもない」と感じてしまうような。そういった空虚さとでも言えば良いだろうか。
 
「何をやっても無駄だからやらない」と思うようになると、何に対しても無気力になる。何故なら、それを突き詰めていくと、そもそも生きていること自体にさほど意味を感じなくなるからだ。
 例えば、「ブログを書くということを、無駄だからやめる」とする。これは、「無駄だから」というよりは「自分語りが多く、誰かが読むに値するものを書けないから」ということだが、ともあれ「「書きたいことはあれど、書かない」ということを実行したとする。

 そうすると、何が起こるか。
「書かない」のだから、思考を形にする必要がなくなる。そもそも、思考をまとめる必要もなくなるし、自分自身の感情の機微を切り出し、どうにかして文章で表現しようという努力の必要もなくなる。

 テレビを見るにせよ、食事をするにせよ、一事が万事その調子で、何に対しても興味がなくなると、最終的に残るのは「何事にも疎い、ただ生きるだけの人」である。果たして、そんなただ生きているだけのような人間が、生き続ける意味があるだろうか?

 もちろん、何かを「切り捨てる」という明確な意思があるのなら別だ。興味の対象を取捨選択することは、悪いことではない。しかし、私の場合、その根底にあるのは「無気力」だった。

年齢を経たことによる影響もあるのだろう。よく、中年が料理や写真など、趣味に力を入れるようになるのと一緒である。私も、そういう年頃になったということだろう。
 
 そんなわけで、2019年は、まずテレビを付けるところからはじめようと思っている。
 いかにもハードルが低い目標だが、死んだものが生き返るにはこのレベルから始めるのがやっとなのだ。それは、このブログを書き始めたのが12月31日で、投稿したのが1月4日なことからも明らかだろう。とにかく、2019年は「やり始める」「やり遂げる」を目指し、死にかけの精神をなんとか生きながらえさせたいと思う。