「君、影薄いね」と貴方は言った

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「FIELD ON ME」から読み解く、エアプ灯里愛夏解体新書 2025年4月

■注意書き

・FIELD ON MEに限らず、ヴイアラの曲はキャラソンっぽい性格を持っているよ!

・曲解釈のついでにキャラクターとしてのヴイアラの3人も考察していくよ!

・しょせんオタクの妄想だから、考察内容は本人とはかけ離れてるよ! だから「エアプ」とつけているよ!

・オタクが私見100%で語りたいこと語ってるから、不快に思う部分があるかもしれないよ! 見る人は注意してね! まあないと思うけど演者は特に注意してね!

・詳しくはこっちの最初の方を読んでね!

blue876.hatenablog.com

 

 

■灯里愛夏という女

 まずはつかみということで強めのフリをしていくわけですが、皆さんは灯里愛夏の配信を見て、「不気味さ」を感じたことはありませんか? 私はあります。

 私にとっての灯里愛夏のイメージは、デビュー(ここではTLS後という意味)からしばらくの間「顔の無い女」というミステリアスなものでした。

 

■FIELD ON ME

 CQのときにも書きましたが、ここでの曲解釈は、前提として、

 

・「彼方」の収録曲は「モチーフの人物」を設定されている。

・収録曲は「モチーフの人物」のソロ曲に近い性格を持っている。

・上記の理由から、「歌割りの意味」などについてはあえて解釈せず、「モチーフの人物」と曲を関連付けて解釈を行う。

 

 というルールでやっていきたいと思います。

 

 さて、CQは上水流宇宙モチーフだと明言されていたのでやりませんでしたが、他の3曲に関してはまず、「誰がモチーフになっているのか?」から考えなければいけません。

 皆さんは、この曲を聞いてどんなイメージを受け取りましたか?

 私がこの曲を聞いてまず感じたのは「クセの無さ」です。実のところ、この曲に関してはほとんど解釈の余地がありません。すべての表現が非常に素直で、そのまま受け止めれば良い。とても前向きで爽やかな「全能感」に溢れた曲です。今のヴイアラでこの素直さと全能感が似合う人間は、灯里愛夏をおいて他にいないでしょう。

 

 というわけで、「FIELD ON MEは灯里愛夏モチーフ」という前提で歌詞を見ていきましょう。

 

>夢は夢のままじゃ終わりたくないなんてもう当たり前の話

 他の曲と違い、FIELD ON MEは候補生時代の後半、あるいはデビュー後を思わせる歌詞からスタートします。これは当然といえば当然の話です。なぜなら、エアプ灯里愛夏のエンタメに生きる人間としての物語は、ヴイアラに参加してから始まったのですから。

 

 芸能の経験もなく、上京してからの人間関係も上手くいかず、プライベートでも多くの試練があった素人同然のエアプ愛夏。一縷の望みをかけて876プロのオーディションに応募したとき、彼女の手の中にあったのは、「夢を夢として終わらせたくない」という、悲痛な想いだけでした。

 

 しかし、現在の彼女にとって「夢をつかむ」などということは、誤解を恐れずに言うならば「当たり前のこと」でしかありません。多くのことを経験した彼女は、いまやもっと「欲しがり」になっています。

 

>あの日決めた覚悟の全部が僕らの背中押してくれてるの

「あの日」とはいつのことでしょう? 憧れのアイドルを見て、自分もなりたいと思ったときでしょうか? 「”可愛い”を目指したい」と思ったときでしょうか? アイドルになることを決意して上京したとき? 悲痛な想いを胸に876プロのオーディションに応募したとき? 候補生として、毎月与えられる課題に取り組んだとき? デビューを賭けた最終オーディションのステージに立ったとき?

 

 たった2年に満たない時間の中で、彼女は多くのきっかけや試練に出会い、そのたびに何らかの気づきを得て、一歩ずつ成長してきました。そうした経験のすべてが、彼女が活動を続ける原動力になっています。

 

>僕は僕らしく~君と同じ景色になったの

 自分に自信が持てず、自己主張することができなかったエアプ愛夏。しかし、そんな彼女を認め、励まし、いつしか同じ夢を追うようになった存在がいます。我々です。

 しかし、不思議なものですね。この曲の歌詞がいつ作られたのかはわかりませんが、FIELD ON MEのこのあたりの歌詞は、愛夏のソロ3曲目「虹の王国の物語~エトワールを目指して~」(以後、エトワール)に近い内容になっています。エアプ愛夏がどう認められ、どう励まされたのかは、「エトワールの王子と愛夏」の会話を参照にしてください。

 

>必ず目指したあの場所へ連れて行くから

 最初は「夢を夢で終わらせたくない」という、ただそれだけの願いしか持っていなかったエアプ愛夏。しかし、現在の彼女の手の中には、当時とは比べ物にならないほど多くの夢で溢れています。もちろん、それを実現するという自信も。

 

>手を繋いでいて!

 しかし、その自信は、決して彼女ひとりで持ち続けられるものではありません。彼女が夢を持ち、その夢を実現できると強く自信を持てるのは、「我々がそばにいる」と確信できるからです。

 

>ここから先は独壇場のステージ シグナル受信駆け出してくよ

 彼女はライブステージだけでなく、普段の配信も含め、「エアプ灯里愛夏」としての活動を「劇」だと解釈しているフシがあります。彼女の活動は、そのすべてが「エアプ灯里愛夏劇場」なのです。ひとたび開幕のシグナルを受け取れば、そこからはエアプ灯里愛夏の独壇場。エアプ灯里愛夏劇場では、どんな障害であっても彼女をさえぎることはできません。

 エアプ愛夏曰く、「自分には「アイドルスイッチ」があり、「エアプ愛夏」として活動するときにはそのスイッチがパチっとONになる」らしいですが(確かそんなことを言ってたような)、この部分はまさしく、そんな彼女を表現した歌詞といえるのではないでしょうか。

 

>running running running fast! jumping jumping jumping high!

 速く、もっと速く! 高く、もっと高く!

 

>語るだけじゃ終われないストーリー~もっと行けるよ!

 彼女は誰よりも早いスピードで、どこまでも高い場所を目指します。自分のスピードにも、目指す場所の高さにも、まだまだ満足することはありません。

 

>こうやって繰り返していく今日にだって~稲妻みたく心を駆けるの

 素人同然だった彼女にとって、今の環境で経験するすべてが真新しく、新鮮で、驚きと感動に満ちています。見るもの、聞くもの、すべてがエアプ愛夏の糧になり、それが新たな発想を生み、新たな夢を形作ります。

 

>行方知らずの勇気を~際限ない場所高く跳んで!

 彼女が目指すのは、遥か宙の「彼方」の見果てぬ場所。今はそこがどんな場所なのかも、どうすれば辿り着けるのかもわかりません。

 はたして、本当に「そこ」に辿り着けるのか? 自分の身の丈を超えた、恥知らずな夢じゃないだろうか? そんな風に躊躇し、怖気づいてしまっても、何も不思議ではありません。

 

 しかし、現在のエアプ愛夏は知っています。勇気を探すことを言い訳に踏み止まっていては、いつまで経っても強くなれないことを。勇気とは、どこかから見つけてくるものではなく、自分で生み出さなければいけないものなのですから。

 

>僕らの居場所はずっとステージ いつだって此処にいるから見つけてよ

 彼女は、まだ自分を知らない「誰か」に語りかけます。「いつでもここにいるから、気になったら見に来てね」と。

 

 前述の通り、「エアプ灯里愛夏」は、ステージ上の役者です。SNSにしろ、曲にしろ、配信にしろ、ライブステージにしろ、彼女はいつでもアイドルとして、「エアプ灯里愛夏劇場」を上演しています。言い換えれば、エアプ愛夏は「どの瞬間でもアイドルで居続ける」という覚悟を持って、普段の活動を行っているということです。「いつだって此処にいるから見つけてよ」という語りかけからは、「どの場面で出会ったとしても、パフォーマンスで観客を魅了できる」という、エアプ愛夏の自信を感じます。

 

>running running running fast! jumping jumping jumping high!

 
>終わりない奇跡へのストーリー 現実(リアル)にだって響かせてみせるよ~もっと遠くへ!

 メタ的な話になりますが……彼女たちにいわゆる「エンディング」はありません。彼女たちが活動を続ける限り。これから彼女たちがどういう道筋を辿るのか、それは誰にもわかりません。しかし、少なくとも彼女たちがこれまで歩んできた道筋は、彼女たちが今立っているこの場所は、2023年当時から考えれば、まさしく「奇跡」としか表現できないものだと思います。

 

 彼女たちは、画面の向こうの存在です。いわば2次元、甘く見積もっても2.5次元の存在です。それが我々の現実に影響を及ぼす可能性は、本来であれば限りなく0に近い。しかし、彼女たちはそれを成し得ています。これもまた、「奇跡」と呼ぶに相応しい出来事ではないでしょうか?

 

 しかし、これで終わりではありません。エアプ愛夏の目指す場所にとって、現在はただの通過点なのですから。

 

>もう1回!~高く跳べるよ!

 誰よりも速く、どこまでも高く。見果てぬ「彼方」を目指すエアプ愛夏は、貪欲に繰り返します。何度でも、何度でも。次は前より高く跳べる、その確信を胸に、今日も彼女はステージに向かいます。

 

■エアプ灯里愛夏への考察

※見返してみたらけっこう思想が強めだったので、読む際は注意してください。

 

・「手がかからないエアプ愛夏」について

 正直なところ、エアプ愛夏に関する解像度は、抜群に低い自信があります。しかし、それでいいと思っています。たったひとつの「ルール」さえ理解していれば、リスナーが彼女を理解する必要はないからです。

 

 さて、おそらくですが、多くの人が「愛夏は手がかからない」と感じているのではないでしょうか? 私も、普段は愛夏について言及することはあまりありません。何故なら、エアプ愛夏は別に、他人の手助けを必要としないからです。

 

 私は面倒な相手につい構ってしまうという性質を持っていて、悩みや葛藤を持っているところを見せられたり、挑戦されたりすると、ついそこへの言及が多くなってしまいます。一方、エアプ愛夏は何か壁にぶつかったとしても自分で勝手に解決方法を調べて実行しますし、活動のために知識が必要だと思えば、自分で必要な人のところに教えを請いに行きます。ですから本来、愛夏の活動にリスナーが介入する隙間というのは、一切ありません。

 

 最近でこそ「リスナーのおかげ」というような話を積極的にするようになりましたが、一時期はスタッフとの仲良しエピソードや影響を受けた他のアイドルの話ばかりで、彼女の視界にリスナーは存在しませんでした。

 エトワールの「また転んでしまったのかい? 大丈夫?」「ええっと……ありがとう。よし、練習を再開するわ!」のあたりは、愛夏自身が「王子に手を差し伸べられても、ぜんぜん気づかないで練習を再開するところが面白いよね」と言っていましたが、くしくもエアプ愛夏の、こうした本質を表現しているように思います。

 

 しかし、だからといって、彼女がリスナーを必要としていないというわけではないことはわかっています。彼女に最も必要なもの、それは「ホーム」です。孤独ではないという安心感、それが彼女を強くします。別な言い方をすれば、我々は彼女にとっての地面でいい。高く跳ぼうとする人間は、常に上を向くもの。だから、彼女の視界に我々は映らない。しかし、いざ跳ぼうとするとき、踏みしめる地面がふにゃふにゃだったら、めちゃくちゃ不安じゃないですか? 彼女が迷いなく、強く地面を踏みしめられるのは、「確かに我々がそこに存在する」と信頼しているからなのです。

 

 そう考えれば、一時期のエアプ愛夏も、「学校であったことを楽しそうに話す子ども」のように、無邪気で可愛らしく思えるというものです。

 

・エアプ愛夏に感じる全能感について

 エアプ愛夏から受ける、活動に対するポジティブさ、伸びやかさ、その他諸々を含めた全能感。これらは、宇宙やレトラとは明らかに違う要素だと感じています。この違いがどこから生まれるのかを考えたとき、ひとつ気づいたことがあります。それは、「エアプ愛夏は”芸能活動で”挫折したことはない」ということです。

 

 もちろん彼女にも、アイドル候補生になるまでに様々なドラマがあり、多くの辛い出来事、多くの挫折によって「崖っぷち」に追い詰められていたことは知っています。しかし、それは「夢のステージに立つ前」の話です。他のふたりのように、「夢のステージに立った後」に挫折を経験したわけではありません。エアプ愛夏はまさしく今、輝かしい「物語」を紡ぎ始めたばかりであって、現実に対する失望や挫折は、これから彼女に訪れる試練になってくるのかもしれませんね。

 

 こう考えると、エアプ愛夏から感じる全能感にも納得がいきます。人は誰しも、物事が上手く運んでいる最中には、「自分は特別な存在で、望めば何でも実現できる」と思うものです。大きく成長するためには、こうした全能感は必要なものだと思います。

 

 これは本当に誰にでもある、当たり前のことです。私も、25くらいのころは「あと10年くらいしたら空を飛べるな」と真剣に思っていましたからね。若い人間はもっと自信を持っていい。ましてや、彼女は私などより、若さにも才能にも機会にも恵まれているわけですから。きっと望めば本当に、どこまでも跳べることでしょう。

 

・「顔の無い」エアプ愛夏について(忖度なし注意ゾーン)

 彼女は多くの顔を持っています。デビュー直後は、自分でも言っていた通り、「どの顔を、どこまで、どう使い分けるか?」を試行錯誤していました。正直に言うと、時に「やりすぎだろう」と思うこともありました。その結果、私は彼女の「本当の顔」がわからなくなってしまったのです。

 

 宇宙やレトラの人物像は、配信から構築しやすい。しかし、エアプ灯里愛夏について考えようとすると、「いったい何が本当で、何が嘘なのか?」がわからなくなり、その人物像を固めることができなくなってしまいました。

 そうした状態で見る配信は、ひどく不気味に思えることがありました。候補生時代から知っていますから、もちろん、エアプ愛夏のすべてが演技だとは思いません。しかし、かといってすべてが本物だとも思えない。何が真実で、何が虚構なのか? 何なら、朝まなが終わった瞬間、タバコでもフカしてるかもしれないわけじゃないですか?

 

 もっとも、最近はこの感覚もなくなりました。なぜ無くなったのか? はっきりしたきっかけはありません。エアプ愛夏が「演じ方」を変えたのかもしれませんし、「演技」に慣れて違和感がなくなってきたのかもしれません。それはそれで構わない、むしろ歓迎すべきことだと思います。「例え嘘であっても、バレなければ真実になる」というのは、私が好きな言葉です。

 

 一方、普段の配信やライブを見る中で、私自身のエアプ愛夏に対する認識が変わったことも、違和感が消えた要因のひとつだと思っています。どんな認識になったか? それは、「エアプ愛夏は、全力で「エンタメ」をしようとしているだけの、18歳の、かなり不器用な等身大の女の子にすぎない」というものです。ひどく単純な結論ですが、神秘とは薄いヴェールに包まれているからこそ成り立つもの。それを剥ぎ取ってしまえば、拍子抜けするほど「当たり前」の結果が待ち受けているものです。

 私が不気味に感じた部分は、ただちょっと「やりすぎてしまった」だけ。その力加減ができなかったのは、エアプ愛夏が不器用だっただけ。「やってみて、失敗しながら覚えて前に進む」という、愚直なやり方でしか前に進めない彼女だからこそ、こういう印象が発生してしまった。今の私は、そのように理解しています。

 

■最後に

 はっきりいえば、エアプ愛夏にはいくらでもつっこみどころがあります。しかし、それを呑み込んでなお、彼女には応援したくなるひたむきさ、輝きがあります。

 色々と言いましたが、

 この頃から、エアプ愛夏さんの”可能性”を疑ったことは、一度たりともありません。

 1年後、2年後、彼女がどんな景色を見せてくれるのか? 今からとても楽しみです。

 

 以上。

 

 次回は「「DYE BAD DAY」から読み解く、エアプレトラ解体新書」でお会いしましょう。

 

関連:

「CQ」から読み解く、エアプ上水流宇宙解体新書 2025年4月

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