「君、影薄いね」と貴方は言った

ネットの片隅に生きるだらだらしたアラフォーブログ

好きになるその瞬間を。を見て、俺は瀬戸口雛に恋をした

 2016年12月24日、好きになる瞬間を。~告白実行委員会~を見てきたわけですよ。

 

 前作を見た後、「12/24に好きになるその瞬間を。とかヲタクとして限界でしょ……」とネタで言っていたんですが、まさか本当に12/24に見ることになるとは、まさか自分自身、思っていませんでしたね。

  まぁ、それは良いんですが(時間帯が悪くて、前作みたいに「JKでいっぱい!」みたいな事はなかったし)、なんというかね、色々思うところがあったので、これはその感想というか、想いのたけを綴ったエントリなんですが、当然ながらネタバレしまくるのでネタバレ見たくない! って人は回れ右。 

 あと、内容はまったくないので、そういうのを求めて読むと肩透かしだと想います。

 

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以下、ネタバレ


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 というわけでね、好きになるその瞬間を。を見てきたわけなんですけれども。

 

 まず、まだ「見てない人」に言いたいんですが、この映画は決して「期待」を持って見ないで欲しい。もちろん、「クサしてやろう」とか、そういう気持ちを持って見るのも論外です。

 この映画、とにかく「”好き”を知りたい」、そういうピュアな想いを胸に抱いて見て欲しい。この映画にをしたと思って見て欲しい。

 とにかく好きになるその瞬間を。が見たい。見れるだけで嬉しい。そういう気持ちを持って映画館に足を運んでもらいたい。

 

 この映画は、期待に応える面白さも、クサせる程の内容も、持ち合わせてないです。

 でも、好き」だけはたくさん見て、感じることができる。それだけは保証します。

 本当、60分の中で、5分に1回くらいの割合で、キラキラボーイズやキラキラガールズが『好き』を意識したり、『好き』を表現したりする。

 

 おいおい、勘弁してくれ、と。

 おじさんはそのキラキラを受け止めるHP、ありませんよと。

 俺がJKでなければ死んでいたところでしたね。危なかったです。

 

 さて、感想です。

 なんというかね、前作が『体験型アトラクション』だったわけですけども、今作の感想を一言で言うなら『哲学』ですよ。

 『哲学』、わかります? 

 俺も自分で何を言ってるのかわからないですよ

 

 前作、「ずっと前から好きでした。」は、正直ね、テンプレイケメンと人の心を持たない畜生がメインを張っていたので、内容的には何も理解できなかったわけですよ。

 

 でも、JKが泣いてる。衝撃! 

 この衝撃はぜひ一度味わうべき!! 

 

 ……みたいな、そういう感想を持ちましたし、実際今もそれは変わりません。

 

 そこをいくと、今作はね、まぁ正直、すげー唐突に終わるし、見終わったあとは「こんなもんかー」って感じだったんですけどね、じわじわくるんです。見終わったあと、言いたいことが溢れてくる。

 好き瞬、俺の観測範囲だと、見終わった後にやたらと考察してる人が多くて、どんな映画なんだと思ってたんですがね、見た今なら言えますよ。わかる

 

 この映画、とにかく、登場人物の気持ちを考えてしまう映画です。

 その中でも、特に考えてしまうのが、ヒロインの「瀬戸口雛」ちゃんのことなんですね。

 

 この映画は60分しかないので、尺があまりにも足りず、作中では尻軽小悪魔みたいな感じになってしまっている雛ちゃんですが、でも、作中の時間にしたら2年とちょっとなわけですよ。

 2年とちょっと好きだった相手だからこそ、髪型を急に変えた時にすぐに「好きな相手ができたんだ」と気付いてしまったし、それでも諦めきらめ切れずに好きでい続けて、ラブレターを書いて、思わず告白までして、でも恋に破れてしまったんですよ。

 

 前半の雛ちゃんの気持ちはね、まぁわかるんですよ。なんか少女漫画的っていうか、テンプレみたいな感じだし、要するに「恋に恋する」女の子だし。

 

 でも、中盤以降の雛ちゃんは違うわけですよ。

 だって、好きで好きで、好きだからこそ、「自分が意中にいない」ということに気付いてしまっているんだもの。それでもラブレターを書いて、勇気を出して気持ちを伝えようという時に、失恋したユッキーが現れるんですもの。思わず「好き」といってしまって、でもやんわりと拒絶されてしまうんだもの。

 

 俺はね、知りたいんですよ。

「好きな人に、自分以外の好きな相手がいる」とわかった時、雛ちゃんはどんな気持ちだったのか? それからの毎日、雛ちゃんはどんな風にユッキーと接して、どんな風に過ごしたのか。気持ちを伝えようと決めた時、そこにどれだけの決意があったのか。

 そして、想いを伝えた瞬間――それが拒絶されるとわかっていながら、つい口をついて出てしまったその言葉に、自分でどういう想いを抱いたのか。

 

 見終わってから2時間くらい経つわけですけども、ずっと雛ちゃんの事を考えてる。

 雛ちゃんの事を知りたくてたまらない。

 この想いは、まるで恋でもしてるみたいじゃないですか?

 

 ……とまぁ、そこでこのエントリのタイトルにつながってくるわけですが、まぁ、正直、インパクト重視で言葉を選んだわけですが、でも、俺がこの数時間、雛ちゃんの事ばかりを考えているというのは”事実”だし、このよくわからない感情が「好き」といわれたなら、それはそうなのだろうと思うわけです。

 

 しかし、恐ろしいのは今のJC、JKですね。

 こういう素直な気持ちをストレートに表現する作品を摂取して育つわけでしょう?

 本当、ヲタクはシン・ゴジラとか言ってる場合じゃないですよ。いや、シン・ゴジラは面白かったけども、このね、素直さ、ピュアな気持ちがね、最先端なんですよ

 これを理解できないというのはともかく、理解しないというなら、本当、時代に置いていかれますよ。

 

 言いたいことは他にもあるんですが、長くなるので割愛します。

 例えば、「実質たまこラブストーリーじゃん!!」とか、「虎太郎、何回雛ちゃんでオナニーしたんやろなぁ……」とか、「虎太郎は床オナ派」とか、まぁ主に虎太郎の青春のパトスの話がメインになってくるわけですが、それはね、別の場所、別の機会にぽろっと出していこうかと想います。

 

 好きになるその瞬間を。~告白実行委員会~、オススメの映画です。

 

 以上。

VividStrike8話 なぜリンネちゃんは負けたのか?

 Vivid Strike7話を見て、個人的な感想の消化を兼ねて。
 当然ネタバレ有りです。
 あと、特に面白いところもオチもないです。
 
 




↓↓↓以下、ネタバレ↓↓↓






 リンネちゃんが負けちゃいましたね。
 個人的な予想では、「ミウラ、ヴィヴィオが勝てばウィンターカップ外でフーカと対戦する」という約束をは、「それを無に帰すほど無慈悲な強さをリンネが見せつける」という、リンネのモンスターぶりを演出するためものだと思っていました。
 ミウラ、ヴィヴィオが傷を負わせてリンネとフーカが対等に勝負できるところまで引きずり下ろして、フーカと対戦。フーカと心を通わせるも、フーカは敗北。最終的に、リンネはアインハルトに負けて決着。
 ヴィヴィオ戦から2話くらいずつ使ってこの工程を消化して、残り1話で後日談……的な話の組み立てを予想していたんですが、普通にヴィヴィオに倒されてしまいました

 まぁ、それはそれで良いんですけど、どうも物語的に納得いかない。
 リンネとの因縁はあくまでフーカにあって、その歩みをヴィヴィオが止めてしまうのは、なんかおかしくないですかね?
 ということで考えていて、行き着いた答えが「リンネとヴィヴィオは対比になっている」「4話の対になる8話」の2点でした。

 まず対比の部分から。
(結構強引な部分もありますが)2人の共通点として、

・生まれが不遇
・良い家庭に引き取られ、家族仲は良好

 という部分があり、対比としては

・家庭以外での環境、友人の差
・生まれ持った才能の差

 が挙げられます。

 次に、「4話と8話」を考えてみます。
 4話は、いじめにあったリンネちゃんが、ゴリラとして覚醒し、同級生(女児)をボコボコにする話で、リンネちゃんの「現在」に繋がる重要な話です。

 なぜ、リンネちゃんの同級生がリンネちゃんをいじめたのか?
 それは、描写が薄いために推し量ることしか出来ませんが、要するに「急に恵まれた金持ちがやってきて、才能をひけらかしてきたので、気に入らなかった」ということでしょう(「リンネちゃんはフィジカルが強かったので、部活で引っ張りだこだった」「すごい金持ちの家に引き取られて、(その気はなくても)見せびらかすように宝石のついたタイピンをつけてた」等)。

 では、8話はどうでしょうか。
 リンネちゃんは、どうやらヴィヴィオのことが気に入らないようです。その原因は、「自分が唯一負けた相手だから」というわけではなく、違う原因があることが、8話の独白からわかります。

8話の独白:
(この子のことは知ってる……エリート公務員の親に育てられて、教会系の名門校にかよって……たくさんの優しい大人たちに囲まれて、何不自由なく育ってきた……生まれつきのお嬢さん
(あなたは格闘技なんてやらなくても……強くなんてならなくてもいいでしょ!)
(帰れる家があって……友達がいて……幸せなんでしょう……?)
(私は違う! 強くならなければ……すべてを失う!

 ここからわかる通り、リンネちゃんはヴィヴィオに対して、「自分とは違う恵まれた境遇なのに、何こいつしゃしゃってきてんの?」という苛立ちを感じているんですね。
 もうおわかりかと思いますが、この苛立ちは4話でリンネちゃんをいじめていた女生徒たちが感じていた苛立ちと、程度の差こそあれ同じものなわけです。

 ヴィヴィオは、決して「生まれた時からずっと恵まれていた」わけではありません。しかし、リンネちゃんはそれを知らない。だから、自分とは違うと相手を妬む。相手を憎む。自分の領域に入ってくるなと拒絶する。
 4話で出てきた女生徒たちも同じだったはずです。彼女たちは、リンネちゃんが孤児だったことは知りません。金持ちの女が転校してき、急に学校でちやほやされはじめた。だから、(方法はどうあれ)妬み、拒絶した。

 4話で心を砕かれ、強者であることを自らの命題とかしたリンネちゃんは、いつしか、自らをそういう場所に追い詰めた相手と同じ存在になっていたわけです。
 そうしたふたりの対決は、ある意味ではフーカvsリンネよりも重要だったのかもしれません。

 ふたりの歩んできた人生は、似ているようで異なるものです。
 そんな、「似ているが決定的に違う人生を歩んできた」ふたりのスタンスが現れたのが、8話の決着のシーンです。

 4話で、「もう、全て終わりでいい」と『覚悟』を決めたリンネちゃん。それは、これまでの周囲とのすべての関係を破壊し、孤独に戻る『断ち切る覚悟』でした。
 それに対して、8話で「私の冬は、ここで終わり」と独白したヴィヴィオの『覚悟』は、『繋ぐための覚悟』。リンネちゃんの心を救うため、フーカへとバトンを渡すため、ヴィヴィオは自らの肉体を酷使してフィニッシュブローを放つ決意をしたわけです。

 Vivid Strikeは「なのは」の名前がついていないものの、同一の世界観の物語です。この世界観では、「誰かと繋がる」「誰かへ受け継ぐ」が「最も強く、尊いもの」とされているわけで、その『覚悟』の差が、勝負の結果に繋がったのかな、と考えていました。

 リンネちゃんは負けてしまいましたが、リンネちゃんとフーカの決着をまだ控えているVivid Strike。最後まで注目していきたいと思います。

『聲の形』所感

 聲の形を見てきました。
 以下、ネタバレを含む感想です。











↓↓↓ネタバレ↓↓↓











 というわけで、「聲の形」を見てきたんですが、この映画は見終わった後に「面白かったな〜」と感じるタイプの映画ではなくて、見た人に対して「テーマ」や「命題」と言ったものを投げかけるタイプの、問いかけのような映画でしたね。
 作品としては聾唖者=西宮さんとのコミュニケーションをメインに据えている作品ですが、実際のところ、「西宮さん」という存在は「コミュニケーションが難しい存在」「日常に紛れ込んだ異物」の象徴に過ぎず、作品全体のテーマとしては「人と人とのコミュニケーションの難しさ」を主においているのかなという印象でした。原作は読んでいないのですが、元々の作品のテーマがそうなんでしょうか?

 この作品が一般的な弱者いじめ作品と違っていたなと感じたのは、「弱者側にも、それなりに攻撃されるだけの理由がある」という点です。
 作中で上野が西宮さんに対して「でも、あなたも私のことを理解しようとしなかった」と言うシーンがあります。大体、こういうのは強者の側の身勝手な言い分だったりするのですが、この作品では、その言い分に一定の説得力があります。
 小学校に転校してきた西宮さんは、健常者のクラスにおいては当然ながら異物です。西宮さんはクラスに馴染もうと、積極的に楽しげに話しているクラスメイトに声をかけますが、最初はそれなりに西宮さんを輪に入れていたクラスメイトたちも、回数が増えるにつれ、どんどん面倒さを感じていくようになります。
 最終的には、西宮さんが輪に近づいてくると、なんだかんだと理由をつけて解散するようになってしまうのですが、西宮さんはこの「拒絶のサイン」を理解できずに(理解しても、敢えて無視していたのかもしれませんが)、自らの行動を改めることが出来ず、それがいじめへと繋がっていってしまいます。
 こうした「拒絶のサイン」に対する対応の間違いは、何も西宮さん=障がい者にだけに発生する問題ではありません。「時に、自分が問題を感じていない周囲への行動が、周囲に対してストレスを与えている場合がある」ということは誰にでも起こり得ることで、この点において、西宮さんが障がい者であるかどうかという部分は全く関係なく、「一人の人間として、西宮さんに問題があった」と言わざるを得ない部分だと私は考えます(無論、年齢による感情の機微の不理解というのはあるにせよ)。

 このように、作中には何かしら、コミュニケーション不全を抱えた登場人物たちが勢揃いしています。例えば、他人との距離の取り方が不得意だったり、自分の恋愛感情を相手に伝えられなかったり、常に「自分が傷つかない立ち位置」に身を置く事で、無自覚に他人を攻撃してしまったり。
 彼らの抱える大なり小なりの「コミュ不全」は、当然ながら多くの「相互理解の不一致」を発生させます。この相互理解の不一致は、「相手を理解する気持ちがあれば解決する」という単純な問題ではなく、「例え肉親相手でも(相手を愛し、手を差し伸べたいという気持ちがあっても)、相手を理解することは難しいことだ」ということを、この作品は訴えかけてきます(西宮さんの飛び降りと、その後の西宮家のシーンがその最たる例です)。

 最初にいったとおり、この作品は一応のハッピーエンド的な終わりを迎えますが、実のところ、こうした「ひとりひとりが抱えるコミュ不全」は何ら解決していません。しかし、それはそれでいいのだと思います。
 自分の性根として抱える問題を、簡単に解決することは出来ません。「そうなろう」と思っても、それを実行できるかどうかは別問題です。しかし、「そうした問題を根治することはできない。でも、それでも不器用ながら人は人の手を取り、コミュニケーションを構築していける」という答えを、この作品は提示しているように思います。

 地雷源の上で、誰かの手を取ったっていいじゃない。にんげんだもの みかげ

 僕にとっての不幸は、この作品をVivid Strike4〜5話の後に見てしまったことでしょうか作中の出来事がVivid Strikeのリンネちゃんとオーバーラップしてしまい、余計なことを考えてしまって大変でした。
「もう、全て終わりでいい」と”覚悟”した時、西宮さんは投身自殺を図りましたが、リンネちゃんなら上野の顔面を机に叩きつけて、聲の形ではなく顔の形を変形させているわけで、上野は文明社会に産まれたことを感謝するべきですね。同様に、西宮さんが投身自殺を図った後に、石田母の足元に縋り付いて「う゛あ゛ぁ゛ーーー!!」となった時も、舞台が未開の地だったら顔面に爪先がめり込んでいたに違いないので、西宮さんも自分が文明の地に産まれ落ちたことを感謝するべきかもしれません。
 そもそも、西宮さんがリンネちゃんのようなヤンキーゴリラであれば作中のような関係の拗れ方はしていないと思うので、西宮さんにほんとうに必要なのはコミュ力でも聴力でもなく、ゴリラにトランスフォームできる力だったことは明白です。

 力こそパワー!

 あと、聲の形のメイン登場人物の少年少女は、よくわからんカタコト外国人と結婚して子供まで設けている、作中最強のコミュ力を持つ石田姉を見習うべきだと思いました。

 以上。
 

Nintendo Switch発表と株価の下落について、その仕組みを考える

まとめ

・「Nintendo Switchの失望が任天堂の株価下落に繋がった」というのは、正しい理解なのか? →そうではないと思う。

・アナリストの言うことは全部後付けだから鵜呑みにするべきではない。

・相場はエンターテイメントだから、楽しめるようになってみよう!

 

■はじめに

 ときに株価は、一般的な視点から見た場合、「何故?」と思うような動きをすることがあります。

 

 ここでは、直近で起こった任天堂の新ハード発表とそれに伴う株価変動」を例にとり、「株価が不可思議な動きをするのはなぜなのか?」という疑問に対する答えを、私なりの視点で回答したいと思います。

 

※注意点

・相場観は個々人で大きく違います。今回ご紹介するのは、あくまで私の相場観です。

・昨今では、相場全体の流れは常に変化しており、今回ご紹介する視点が明日も通用するかどうかはわかりません。

 

■多くの人が疑問に思った「株価の下落」

 ゲームに疎い方でも、「任天堂の新ハードが発表された」というニュースは、ご存じの方が多いと思います。

 Nintendo Switchの発表翌日、任天堂の株価は大きく下落したことは、様々なメディアで取り上げられ、インターネットの三流タブロイドでも大きく取り上げられました。

 

 これに対して、私のTLでは「何故、株価が下がったんだろう? 魅力的なハードに見えたのに」という声や、「投資家はゲームをしていないんだな」という声が散見されました。

 

 私から言わせると、任天堂の株価は下がるべくして下がったわけですが、確かに一般的な見方をすれば、「ポジティブな内容だったにも関わらず、何故、ネガティブな反応が起こったんだろう?」と疑問を覚えるのももっともです。

 

 では、なぜ、任天堂の株価は大きく下がってしまったのでしょうか。

 

■アナリストのいう「株価変動の分析」は、全て後付け

 株価の下がった理由について、少し検索するだけでも、様々なサイトが分析を掲載していることがわかります。

 

【深層】ニンテンドースイッチ発表で任天堂の株価が下落した理由
http://www.toushin-1.jp/articles/-/2200

 

 例えば、上記のサイトでは、「真新しさがなかったこと」がその最大の要因であると分析しています。確かに、Nintendo Switchのコンセプトに真新しさがあるかといわれれば、特にないと私も感じています。

 しかし、だからといって、株価が大きく下落するほど悲観的な内容だったかといわれると、そういうわけでもないと思います。

 実際のところ、こうした「株価変動の理由」に関して、正確に把握できるアナリストは皆無と言っていいでしょう。こうした分析は、あくまで「起こった事象に対して、どういった意味付けを行えるか?」という、言ってしまえば付けでしかありません。

 

 もし、今回の発表で株価が大きく上昇したとすれば、こうした分析は全て、「新ハードのコンセプトが真新しかった」「PVのつくりが、任天堂が力を入れてこなかった、所謂「ゲーマー層」に訴えかけるつくりであり、期待感が高まった」などと書かれていたことでしょう。

 

■短期的な投資に理由は不要。必要なのは「小さなきっかけ」と「タイミング」!

 実際のところ、投資というものはタイミングに重きがおかれており、発表内容のポジティブさ、ネガティブさは、短期的な部分では特に関係ありません。

 

 今回、任天堂の株価に大きく寄与したと私が考えているのは、投資の世界に古くからある「噂で買って事実で売る」という格言です。

 

 投資の世界では、事前にリークされた決算内容がかなり良好で、事実、その通りの内容が発表されたにも関わらず、直前まで上がり続けていた株価が、表と同時に大きく下落することがあります。

 今回の事例は、まさにその典型的な例だと言えるでしょう。

 

 職業投資家は、常に「決済ができるタイミング」を狙っています。今回のような「大型発表の直後」は、「決済するタイミングとしてちょうど良かった」というのも、今回のような事例に繋がる要因のひとつと考えられるでしょう。

 

■市場を動かすのは、個人ではなく一部の大手

 現在の投資の世界では、市場の動きを決定するのは、個人ではなく一部の大手、所謂ヘッジファンドの方針次第です。例え、個人が「今回の内容は良かった」と感じても、大手が最初から「噂で買って事実で売る」方針を固めていたなら、「事実」の発表直後に、短期的な株価は下落してしまいます。

 

 つまり、短期的な株価は、あくまで「大手投資機関の意思によって変動するもの」であり、企業の価値や、発表された内容の善し悪しを判断できるものではないということです。

 それらを判断したいのであれば、短期的な株価変動よりも長期的な(少なくとも、1~2ヶ月以上の範囲での)株価変動に注目するべきでしょう。

 そういう意味では、今年半ばには13,000円台だった任天堂の株価は、現在ではその倍近くに上昇しており、企業価値の評価は大きく上がっていると言えます。

 

 もっとも、この株価の上昇については「ポケモンGO」による部分が大きいわけですが、Nintendo Switchが市場に評価されているのであれば、今後、任天堂の株価は緩やかに上昇していくでしょう(少なくとも、Nintendo Switchの発売までは)。

 

■おまけ:三流タブロイドのネガティブ記事は、株価操作が可能なのか?

 あくまで個人的な意見ですが、ネットの三流タブロイドに株価を変動させるような力はないと考えています。

 その理由は、三流タブロイドの客層に投資家が少ないと考えられること、例え投資家がいたとして、三流タブロイドの情報に左右されるような投資家が、株価に影響を与えるほどの株保有数を持っているとは考えづらいこと等です。

 

 但し、ヘッジファンドの使う取引手法のひとつにアルゴリズムと呼ばれるものがあります。これは、特定のキーワードを設定し、Twitter等でそれらの単語を検索。一定数のヒットがあった場合に売買を行う、というものです(多分)。

 

 三流タブロイドの記事をTLに流すことで、その記事タイトルにアルゴが反応してしまうことがないとは言えません。

 

天皇アルゴ?天皇陛下「生前退位」に反応するアルゴリズム日経平均先物で作動か

http://kabumatome.doorblog.jp/archives/65867770.html

 

 直近で起こった、面白いアルゴリズムの誤反応(と噂されているもの)はこれでしょうか。

 

 但し、こうした誤反応が起こる可能性は、三流タブロイド記事の拡散を考えれば少ないのではないかというのが、個人的な感想です。これを元にしてタブロイド記事を流すのが云々というのは、無理があると感じます。

 

 それをいってしまえば、例えば「何故、任天堂の株価が下がるんだろう?」という疑問でさえ、任天堂」「株価」「下がる」というキーワードに引っかかる=追い打ちの売りを誘発する可能性があり、迂闊な発言は何も出来ないことになってしまうからです。

 

■最後に

「何故、今回、任天堂の株価が下落したのか」について、簡単に、かつ個人的な観点からではありますが、その仕組みをご紹介しました。

 

 相場とは、過去を知ることで未来を予想する、一種の学問であると同時に、予想の範疇を飛び越えて動く良質なエンターテイメントでもあります。

 相場の動き方のパターンを知り、起きた事象に照らし合わせて今後が予想できるようになれば、市場を見るのが楽しくなるはずです。

 

 相場というエンターテイメント、ぜひ、みなさんも体験してみてください。

クソアニメ論

■序文
 昨今では、数え切れないほど多くのアニメが、3ヶ月毎に放送されている。そうした数多のアニメを評価する言葉のひとつに、「クソアニメ」というものがある。

 この言葉は、非常に多くの意味を内包する言葉であるにも関わらず、その字面から「単純に面白くないアニメ」を意味する言葉として使われることも多い。

 一クソアニメ好きとして、このような誤用を見るたびに、非常に強い憤りを覚える。そこで私は、世に正しい「クソアニメ」の意味を啓蒙するため、ここに筆を執る次第である。

 しかし、「クソアニメ」の意味するところは非常に繊細であり、その意味を完璧に定義することは、個人ではとうてい不可能である。そのため、ここでは、クソアニメ視聴に必要な心構えや、「あくまでも私はこう考える」というクソアニメの判断ポイントを何点か挙げると同時に、時にクソアニメと判別し難い場合がある「名作」の条件についても触れていきたいと思う。

 

■「クソアニメ視聴」に求められる心構え
 クソアニメを視聴する際、我々にはひとつの心構えが求められる。それは、「放送中、いつでも掌を返すことができる心構え」である。

 クソアニメは、決してクソアニメとして生まれてくるわけではない。しかしながら、監督のやりたいこと、見せたいことに視聴者がついていけないとき、人はそれを「クソアニメ」と評価する場合がある。

 こうしたアニメは何らかのパワーを持っていることが多く、やがて視聴者の多くを魅了する名作となるか、もしくは、独りよがりさを視聴者に見抜かれ、駄作の烙印を押されることになる。

 このようなアニメを、いつまでも「クソアニメ」と評価し続けるのは、クソアニメ視聴者として非常にナンセンスである。その作品のブレイクポイントを敏感に察知し、時が来ればきちんとした評価を下せる「センスあるクソアニメ視聴者」になるためにも、いつでも掌を返す準備をして視聴に望みたい。

 時に、周囲が「クソアニメだ」と評価し続けたとしても、自分が「名作」、あるいは「駄作」と判断したのであれば、強い心を持ってそれを口に出していくことも、クソアニメ視聴者の義務である。

 安易に「クソアニメ」と評価したい気持ちをねじ伏せ、、己の内面と向き合い、真なる自分の心を見出すことになるクソアニメ視聴は、克己の修行であるといえる

 

■クソアニメの判断ポイント
 クソアニメの判断ポイントは、人によって大きく異なってくる。ここでは、あくまで「クソアニメに含まれる率が高かった要素」と、個人的な判断ポイントを列挙していく。
 時折、具体的な事例としてアニメの名前を挙げることがあるが、そのアニメがクソアニメだというわけではないことに注意していただきたい。

 

・キービジュアルが既に力尽きている
 本来、ユーザーの目を引くために、もっとも力を入れなければならないキービジュアルが既に「落書きか?」というような、一見して予算のなさを伺わせるようなアニメは、クソアニメ率が高い。公式ホームページのキャラクター紹介が力尽きている場合も同様である。

例:
戦姫絶唱シンフォギア(1期) http://www.symphogear.com/
聖剣使いの禁呪詠唱<ワールドブレイク> http://warubure-anime.com/

 

・印象的なセンテンスがある
 印象的なセンテンスを持つアニメは、クソアニメである確率が高い。

例:
「一人旅団」(革命機ヴァルヴレイヴ
「思い……出した!」(聖剣使いの禁呪詠唱<ワールドブレイク>)
「待たれよ」(アルドノア・ゼロ
「……んだよ、意味がわかんねえ」(魔法戦争

 

・特定の声優が出演している
 特定の声優が出演しているアニメは、クソアニメである確率が高い。
 かつては「木戸衣吹が出演するアニメはクソアニメ」という定説が存在したが、「すべてがFになる」がそこそこ普通な出来だった上に、「アヴァベルオンラインアニメ化中止事件」によって、「木戸衣吹が出演するクソアニメは放送されるが、M・A・Oの出演するクソアニメは放送もされない」と一部で(主に俺)話題になり、勢力図が塗り替えられつつある。
スマホ向けRPG「アヴァベルオンライン」のテレビアニメ化が中止に 運営元は「諸般の事情」と説明 https://gunosy.com/articles/RIA69

 しかし、一部の有識者の間では、「木戸衣吹M・A・Oの演技を受け止めきれないアニメ側に問題があるのではないか?」と疑問が呈されている。

 

・OP、またはEDが名曲である
 OP、またはEDが名曲であるアニメは、クソアニメである率が高い。

例:
魔法戦争OP:https://www.youtube.com/watch?v=pb6HN_NFD20
魔法戦争ED:https://www.youtube.com/watch?v=fe8i1aXZ2SI
ビビッドレッドオペレーションOP:https://www.youtube.com/watch?v=BSRRsXuttgQ

 

※注意点
 確かに、クソアニメの条件としてOPが名曲であるアニメはクソアニメ率が高い。
 しかしながら、決してOPに起用してはいけない歌手が存在することが、個人的な調査から明らかになっている。その歌手とは、AKINO with bless4である。
 AKINO with bless4の曲は、確かに名曲揃いである。しかし、AKINO with bless4をOPに起用した場合、そこから放たれる圧倒的な”圧”は現代アニメが受け止めきれるものではなく、数多くのアニメがAKINO with bless4の前に敗北してきた
 しかし、逆に言えば、”本編殺し”とも呼べるAKINO with bless4には、それだけの「名作オーラ」備わっているということである。いつの日か、アニメ制作現場が次のステージに進み、AKINO with bless4にアニメの内容が追いついたとき、その相乗効果は計り知れないものになるかもしれない。

 

・革新的・先進的な手法を用いて作られている
 クソアニメを分析すると、革新的・先進的な手法を用いて作られていることが多々あることがわかる。

戦姫絶唱シンフォギア
 カット割りや台詞回しによって展開を圧縮し、「4話1クール=12話で3クール」とすることに成功しており(12話を「結」と考えれば4クール)、筆者はこれを「シンフォギア三倍段」と呼んでいる。
 GやGXとシリーズを重ねるごとにこの手法は薄れつつあるが、「必要な部分を描写するために、少しでも余計な部分は絶対に省く」というマイナスの手法は、「君の名は。」や「シン・ゴジラ」でも採用されている。

 

メカクシティアクターズ
 筆者が立てた「ささみさん@がんばらない」でイラストレーター左氏の絵をそのまま動かした功績により、今後10年、どんなことがあってもシャフトをdisらない」と誓いの8年分を消費させたと(俺の中で)話題の「メカクシティアクターズ」が採用している、「アニメをミュージックビデオと捉え、カゲプロのファン層が買いやすい価格帯に設定した円盤を毎月発売する」という手法は、なかなか他に類を見ない商売の手法である。

 クソアニメの中には、こうした「尖りすぎた手法」を採用したがゆえに、一般的な視聴者がついていけずに「クソアニメ」に分類されてしまっているものもある。クリエイターは、こうしたクソアニメの中から手法を学び、一般に受け入れられるように手を加えることで、ヒット作を生み出せる可能性がある。
 つまり、クソアニメはアニメ界のパリコレクションといえるだろう。

 

・犬がしゃべる
 犬がしゃべるアニメはクソアニメである。

 

■名作の判断ポイント
 ここからは、「時に、クソアニメと判別をつけづらい名作アニメの判断ポイント」を紹介していく。

 

・OPかEDで走っている
 OPかEDでキャラクターが走っているアニメは名作である

 

・突然ミュージカルがはじまる
 なんの脈絡もなくミュージカルが始まるアニメは、当然だが名作である

 

・野球回、またはサッカー回がある
 いうまでもないことだが、野球回、またはサッカー回があるアニメは名作である
 その回が最終回に近ければ近いほど、名作の度合いは高まる

 

・女子が女子を平手打ちする
 もはや万人の共通認識であるため、言う必要があるのか疑問だが、女子が女子を平手打ちするアニメは名作中の名作である

 

■「クソアニメ」に似て非なるアニメ
 クソアニメと似て非なるアニメが存在することは、余り知られていない。
 このアニメは「まなめはうす枠」と呼ばれており、先日、惜しまれながらもその長い歴史に幕を閉じた(※1)「まなめはうす」管理人が好んで視聴するタイプのアニメである。
 このアニメは多くの場合、

・エロゲ原作である
・ギャグ寄りである
・ナンジョルノが出演している
・学園モノである

 などの要素を含んでいる。
 これらのアニメは「まなめはうす枠」であり、クソアニメ好きに話題を振っても微妙な顔をされてしまうため、注意したい。

 

■最後に
「クソアニメ」は、個々人によって大きく判断ポイントが異なることは、先に述べたとおりである。だが、「クソアニメ」に共通するのは、「どこか、強く人を惹き付ける魅力がある」ということである。
 ただの駄作を「クソアニメ」とはまったく異なるものである、安易にそうした呼称を用いることは、アニメに対する侮辱である。クソアニメに理解を示すことが難しい一般的な感性の持ち主であっても、そのことだけは十分に注意して欲しい。

 また、クソアニメに感じている魅力は人それぞれであるため、共通言語として語ることはほぼ不可能である。同じクソアニメが好きだからといって、話が盛り上がるわけではないということにも、十分留意すべきであろう。


※1 まだやっていると本人から抗議がきたので、まなめはうすもみんなよろしくね http://maname.hatenablog.com/

オリヴィエLv100

土曜22時〜オリヴィエ連戦参加者各位

コルタナ/オールドコルタナ/マグナ武器が落ちるらしいので、オリヴィエ連戦やりたいと思います。土曜22時開始。2時間でおわり。

必要なもの:
トレハン ソーン 火力(ザルハメリナはいます)

やり方:
自発した人は団内救援出す>1分経ったらスタート。
即フレア>ソーンで麻痺らせて一気にぼこぼこにする(理想)

やるかも:
スタートしたら全体に救援出す?

NG:
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シン・ゴジラのシンはシンフォギアのシンだった

 シン・ゴジラを見てきました。

 シン・ゴジラを見てきて、事前の評判から「あ~こんな話なんだろうな~、じゃあ見てきたらこんな感じの感想言っちゃおうかな~」と考えてたものがあったんですが、実際見終わった後に思っていたことは、「シン・ゴジラ、シンフォギアだった」でした……。いや、最後のあれのあれだけでなくて。以下、その理由をお話します。

 ちなみに、書き終えてから見返したところ、話がずれまくっている上に、(個人の感想です)以上のものでなかったり、「いや、つまりこういっているのはこういうことだよ、頭わりぃな」というような感じの部分が多くなりましたが、あくまで私のブログで私が書いた記事なので、そこら辺はご容赦ください。

 

 

 

 

 

 

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ネタバレ

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 私が言うところの、「シン・ゴジラとシンフォギアの類似点」、それは、どちらも「マイナスの手法で作られている」という部分です(個人の感想です)。

 この2つの作品は、どちらも「見せたいテーマ、物語」が最初にあり、それを必要な尺の中に収めるために、極限まで「不必要な部分」をそぎ落として作ってあると感じました。

 この手法を用いたアニメとしては、シンフォギア1期が特に優れていて、私はこれを新世代のシナリオスタンダードと呼んでいるんですが、ようやくそこに庵野監督が追いついたか。という感じですね。

 シンフォギアを知っていれば、事前によく見かけたような、「キャッチーな主題歌とか恋愛要素とかなくても売れるものは作れるんだよ!」という結論にはなりようがないので、全ヲタクは早急にシンフォギア(特に1期)を見るべきだと思います。一般的には安っぽい作画や、一見しただけでは笑いを誘っているとしか思えないストーリー展開で話題になることの多いシンフォギア1期ですが、作中で使用されている「マイナスの手法」はかなりの高レベルですので、技術的な面に注目してシンフォギアを見てみましょう。

 まさか、シン・ゴジラを見て、こんなウエメセでわけのわからないことを言うことになるとは、私も思っていませんでした。

 そんな感じで、「これ実質シンフォギアでは?」と思ってみていたら、急に「アメノハバキリ」とか言い出したので、ヤシオリ作戦時の、急激に巻きが入ったような怒涛の展開も含めて、もう完全にSAKIMORIが戦っていました。俺の中で(幻覚)。

 まぁ、結論を言うと、私自身そうなんですが、コンテンツが溢れる現代を生きる我々は、皆「我慢弱い」部分があるんですよね。主軸とずれた要素が入っていると、退屈と感じやすい。その点、シン・ゴジラもシンフォギア1期も、徹頭徹尾「見せたい物語」を、最低限の肉付けでブレることなく表現していたので、その点がウケているのかもしれないなぁ……というのが、シン・ゴジラの感想です。

 シン・ゴジラ自体の内容としては、本当に中身がなかったですね。ゴジラは作中でただ歩いていただけだし、攻撃されたからビームで反撃したくらい。上陸した理由というのは特に何もなかったし、ゴジラがきて、それに対応して、何とか上手くいったね、おわり。みたいな内容でした。

 ただ、シン・ゴジラの話としてはそれでいいと思っていて、例えばゴジラが上陸してうろうろしていた明確な理由なんていうのは、なくてもいいんです。何故なら、この映画は怪獣映画ではなくて、実際のところ、「天災に対してがんばる日本人を描いた映画」だからです。

 シン・ゴジラの序盤の展開を見ればわかるように、ゴジラは形態ごとに、地震津波原発事故といった、日本を襲った天災・人災を踏襲し、第4形態として、「それらを上回る、未曾有の天災」として描かれています。天災が発生するのに、特に理由はありませんよね。そんなわけで、メインは必然的に、「天災に対応する日本人」になり、最後、ゴジラを何とか倒す場面は、「一致団結した努力で、未曾有の天災をも何とか乗り越えられる。だから、あきらめずに頑張ろう」というメッセージを感じました。

 ただし、天災はいつまた起こるか、誰にもわかりません。「これからずっと、ゴジラと付き合っていかなければならない」という最後の台詞は、この映画のメッセージが、これまで発生した阪神大震災東日本大震災、九州・熊本地震の被災者の方々だけでなく、これから発生するであろう未曾有の天災に対して、備え、起こったとしてもお互いに協力して乗り越えていこう、というメッセージなのかなと思いました。

 で、話がずれるんですが、事前によく見ていたような、「キャッチーな主題歌とか恋愛要素とかなくても売れるものは作れるんだよ!」というのは、なんだか的外れに感じましたね……。いや、言ってることは正しいとは思うんですけど、シン・ゴジラはたまたま、「弁当箱に必要なものを詰めていてったら余分なおかずが入るところがなくなった」だけで、もし庵野総監督より100倍くらい構成が上手い人がいたら、多分そういうのも入ってると思うんですよね。そういう部分も、ないことはなかったし。だから、シン・ゴジラという映画を持ち上げて「どうだ今の邦画界よ、これが面白い映画作りだ!」と言い出すのは、うーん、いまいち的外れかなぁ、と思いました。

 

 もうちょっと書きたいことがあったんですが、あんまりまとまらなかったので、とりあえず以上。