「君、影薄いね」と貴方は言った

ネットの片隅に生きるだらだらしたアラフォーブログ

『聲の形』所感

 聲の形を見てきました。
 以下、ネタバレを含む感想です。











↓↓↓ネタバレ↓↓↓











 というわけで、「聲の形」を見てきたんですが、この映画は見終わった後に「面白かったな〜」と感じるタイプの映画ではなくて、見た人に対して「テーマ」や「命題」と言ったものを投げかけるタイプの、問いかけのような映画でしたね。
 作品としては聾唖者=西宮さんとのコミュニケーションをメインに据えている作品ですが、実際のところ、「西宮さん」という存在は「コミュニケーションが難しい存在」「日常に紛れ込んだ異物」の象徴に過ぎず、作品全体のテーマとしては「人と人とのコミュニケーションの難しさ」を主においているのかなという印象でした。原作は読んでいないのですが、元々の作品のテーマがそうなんでしょうか?

 この作品が一般的な弱者いじめ作品と違っていたなと感じたのは、「弱者側にも、それなりに攻撃されるだけの理由がある」という点です。
 作中で上野が西宮さんに対して「でも、あなたも私のことを理解しようとしなかった」と言うシーンがあります。大体、こういうのは強者の側の身勝手な言い分だったりするのですが、この作品では、その言い分に一定の説得力があります。
 小学校に転校してきた西宮さんは、健常者のクラスにおいては当然ながら異物です。西宮さんはクラスに馴染もうと、積極的に楽しげに話しているクラスメイトに声をかけますが、最初はそれなりに西宮さんを輪に入れていたクラスメイトたちも、回数が増えるにつれ、どんどん面倒さを感じていくようになります。
 最終的には、西宮さんが輪に近づいてくると、なんだかんだと理由をつけて解散するようになってしまうのですが、西宮さんはこの「拒絶のサイン」を理解できずに(理解しても、敢えて無視していたのかもしれませんが)、自らの行動を改めることが出来ず、それがいじめへと繋がっていってしまいます。
 こうした「拒絶のサイン」に対する対応の間違いは、何も西宮さん=障がい者にだけに発生する問題ではありません。「時に、自分が問題を感じていない周囲への行動が、周囲に対してストレスを与えている場合がある」ということは誰にでも起こり得ることで、この点において、西宮さんが障がい者であるかどうかという部分は全く関係なく、「一人の人間として、西宮さんに問題があった」と言わざるを得ない部分だと私は考えます(無論、年齢による感情の機微の不理解というのはあるにせよ)。

 このように、作中には何かしら、コミュニケーション不全を抱えた登場人物たちが勢揃いしています。例えば、他人との距離の取り方が不得意だったり、自分の恋愛感情を相手に伝えられなかったり、常に「自分が傷つかない立ち位置」に身を置く事で、無自覚に他人を攻撃してしまったり。
 彼らの抱える大なり小なりの「コミュ不全」は、当然ながら多くの「相互理解の不一致」を発生させます。この相互理解の不一致は、「相手を理解する気持ちがあれば解決する」という単純な問題ではなく、「例え肉親相手でも(相手を愛し、手を差し伸べたいという気持ちがあっても)、相手を理解することは難しいことだ」ということを、この作品は訴えかけてきます(西宮さんの飛び降りと、その後の西宮家のシーンがその最たる例です)。

 最初にいったとおり、この作品は一応のハッピーエンド的な終わりを迎えますが、実のところ、こうした「ひとりひとりが抱えるコミュ不全」は何ら解決していません。しかし、それはそれでいいのだと思います。
 自分の性根として抱える問題を、簡単に解決することは出来ません。「そうなろう」と思っても、それを実行できるかどうかは別問題です。しかし、「そうした問題を根治することはできない。でも、それでも不器用ながら人は人の手を取り、コミュニケーションを構築していける」という答えを、この作品は提示しているように思います。

 地雷源の上で、誰かの手を取ったっていいじゃない。にんげんだもの みかげ

 僕にとっての不幸は、この作品をVivid Strike4〜5話の後に見てしまったことでしょうか作中の出来事がVivid Strikeのリンネちゃんとオーバーラップしてしまい、余計なことを考えてしまって大変でした。
「もう、全て終わりでいい」と”覚悟”した時、西宮さんは投身自殺を図りましたが、リンネちゃんなら上野の顔面を机に叩きつけて、聲の形ではなく顔の形を変形させているわけで、上野は文明社会に産まれたことを感謝するべきですね。同様に、西宮さんが投身自殺を図った後に、石田母の足元に縋り付いて「う゛あ゛ぁ゛ーーー!!」となった時も、舞台が未開の地だったら顔面に爪先がめり込んでいたに違いないので、西宮さんも自分が文明の地に産まれ落ちたことを感謝するべきかもしれません。
 そもそも、西宮さんがリンネちゃんのようなヤンキーゴリラであれば作中のような関係の拗れ方はしていないと思うので、西宮さんにほんとうに必要なのはコミュ力でも聴力でもなく、ゴリラにトランスフォームできる力だったことは明白です。

 力こそパワー!

 あと、聲の形のメイン登場人物の少年少女は、よくわからんカタコト外国人と結婚して子供まで設けている、作中最強のコミュ力を持つ石田姉を見習うべきだと思いました。

 以上。