「君、影薄いね」と貴方は言った

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シンエヴァを見た感想

 以下、シンエヴァを見た感想になりますので、ネタバレご法度な方はブラウザかタブを閉じてください。

 

 

 

 

↓↓↓↓以下ネタバレ↓↓↓↓

 

 

 

 

 シンエヴァ劇場版を見てきました。

 そもそも全然エヴァンゲリオンというコンテツに興味がなくて、TV版も流し見でしたし、EoEは流行ってたので劇場に見に行ったものの、ラストの意味不明さに消化不良。新劇場版は一回も映画館で見たことがありません。

 そんな私ですが、シンエヴァのネタバレ概要を見て「ぴん」と来たと言うか、思うところがあって、シンエヴァを見に行くことにしました。

 

 感想としては、「めちゃくちゃ感謝にあふれた映画だな」という感じでしたね。

 私はエンタメというのはそれ単体で完結しているべきで、盤外の事情について考慮するのは邪道という考えを持っているのですが、シンエヴァというか、新劇場版シリーズに関しては、盤外の事情は考慮する必要があるなと感じます。なぜなら、この映画は庵野秀明からエヴァファンや関係者に向けたビデオメッセージのように感じたからです。

エヴァに監督からのメッセージが込められているなんて、そんなのは前から言われているじゃないか」というのはごもっともなんですが、シンエヴァを揶揄する際に言われる「庵野のメッセージ」は、ちょっと違うかな、と思っていて。

 確かに、現実は素晴らしい、みたいなメッセージではあるんだと思うんですが、なんというか……ここに込められたメッセージは、もっと単純で、純朴というか。この映画に込められているのは、ただ庵野監督自身の気持ち、つまり、「世間は素晴らしいものだと気付きました」「気づかせてくれてありがとう」「辛抱強くファンでいてくれてありがとう」という感謝の気持ちであって、「お前たちも現実と向き合うべきだ」みたいな、他人の生き方を矯正しようとメッセージを押し付けてくるような、EoEのときの傲慢さや幼稚さはすっかりなくなっているように感じました。むしろ、「私も、皆さんのおかげで大人になれました」という表明であり、「オタク、あの(旧劇)ときはごめんね……」みたいな、謝罪すら感じました。

 

 庵野監督は、「同じエンタメを作るなら、アニメじゃなくて特撮を撮りたい」としか思っていないんじゃないかと私は思っていて、だからこそ、延々引きずってきたエヴァには決着をつける必要があったと思うんですよね。

 で、「じゃあ、エヴァをどういう風に終わらせるか?」と考えたときに、「エヴァをエンタメとして昇華しよう」という結論になったんじゃないかと。序の後半や破、そしてシンは、かなり「わかりやすく気持ちのいいエンタメ」として作ろうとしているな、と感じます。

 一方で、Qは旧劇のような、いわゆる「いつものエヴァ」だった。それはなんでだろうと考えていたんですが、もしかすると、「エヴァをエンタメとして終わらせることで、裏切られるエヴァファンもいる」と思い直したのかもしれませんね。

 エヴァの持つ神秘的な部分に惚れたファンというのも多かったわけですから、エンタメエヴァは確かにわかりやすく面白くて「エヴァ」というコンテンツが持つ神秘性を剥奪し、「終わらせる」には一番簡単な方法かもしれないけど、それだと「エヴァファン」に報いることができない。じゃあ……ということで、元々三部作の予定だった新劇場版シリーズが、Qを挟んで四部作になったんだとすると、そこにはかなりの悩みがあったんじゃないかと推察します。まぁ、ただの妄想ですが。

 ただそれでも、「ただのエンタメで終わらせるのではない、今までのエヴァ全てに決着をつけて終わらせる」という考えを庵野監督自身が持っていたんじゃないかな、と私が思うのは、作中の描写にそういう部分が多いからです。

 特に村編では、無気力なシンジ(鬱病庵野)、それを責めるアスカ(多分、無気力な自分を責めるもうひとりの内面的な庵野)、社会とふれあい人格を獲得していくレイ(ジブリとか手伝って養生する庵野)という、「鬱病だった頃の自分がどうやって立ち直ったか」のような描写が延々続きます。そこで少し立ち直ったシンジに、大人になったトウジが「自分の起こした行動で発生した事柄には、自分が責任を持って収集をつける」というようなことを話して、シンジも同じことを志すことになります。この考え方は、おそらく庵野監督の中では「大人」の考え方なんでしょうね。EoEでは「現実に向き合え」というメッセージを込めておきながら、あの映画はまったく、自分が起こした現実(エヴァブーム)を収集しようというつもりがなかった。ただただ、実写の映像を取り込んだりして、「お前たちは反省しろ」「お前たちが変われ」というような、押し付けがましいメッセージしか発信しなかった。つまり、庵野監督は、他人に変わるべきだと諭しながら、その実、自分は子供のままだったんですね。

 ところが、シンエヴァでは、そういうメッセージ性はなくなった。むしろ、「自分と向き合い、何をすべきかを考え、実行に移す」という、自分の内面との対話が重視されていたように思います。

 その結果が、シンエヴァのラストシーン近辺、赤い砂浜に寝そべるアスカは旧劇のラストシーンだし、絵コンテになっていくのはTV版のラストシーンで、そのどちらをも、「大人になった視点」から、旧来とは別な方向に筋道をつけた(製作者としての責任を果たした)のではないかな、と。これがつまり、冒頭で述べたような、「あのときはごめんね」という謝罪なんじゃないかと。

 それ以外にも、「式波アスカがシンジを殴りたかった理由」として、シンジは「三号機に乗っていたアスカを殺すことも助けることもできなかったから」という結論を出していますが、考えてみると、これは旧劇の「気持ち悪い……」という、謎のメッセージの「回答」なんじゃないかな、と思ったりして。シンエヴァはこんな感じで、色々と過去作の消化不良だったりする部分に対して、答えをくれているとシーンが多いなと感じました。まぁ、そもそも、「エヴァ」という不可解な物語に対して、急ぎ足ながらも「結末」を用意してくれたのですから、その時点でだいぶ優しいのですが。この「優しさ」を「軟弱化したオタクに対する諦観」と取るかどうかは人によると思いますが、私はそもそも、「オタクは自分たちで考察して、結論を導き出すべき!」というような古風でマッシブな考え方は単純に嫌いなので、この変化はありがたかったです。

 

 とまぁ、真面目に語るのはこれくらいにして、シンエヴァ、かなりエンタメ作品でしたね。というか、ぶっちゃけた話ですが、この映画のエヴァ要素って比較的どうでもよくて、庵野の感謝のビデオレターとエンタメ作品の合間に、とってつけたようにエヴァ要素が挟まってくる。で、そこだけめちゃくちゃ説明ゼリフだったり、巻きが入ったみたいに適当だから、何度も映画館で笑いそうになりました。「ああ~、なんか話はよくわからんけど、今”エヴァ要素”の回収ね~笑」という感じで受け流し得ました。

  全体的に「それっぽいことを言い出してるときは聞き流せばいい」というスタイルが後半は加速しすぎてて、適当な用語を叫ぶだけでエヴァ要素を消化してましたね。特に最後の「ネオンジェネシス……」とか言い出すところは、「で、出た~~~~~~~~最後にタイトル回収すると名作っぽくなるやつ~~~~~~~~~wwww」という興奮が抑えられませんでした。

 あと、自分が影響を受けたもの(?)に対するオマージュもすごい。セカンドインパクトの爆心地の謎の地上絵はイデオン(小説版)!? となりましたし、ネルフ本部には無人在来線爆弾ならぬ無人艦爆弾をぶちこむし、名前がないやつが職業体験するのは千と千尋だし、本当の最後に最後で、駅に成長した男女、そして神木隆之介の「君の名は。」リスペクトセットが来たときはマジで声が出るかと思いました。なんで君の名は。なんだ。ああいうのやりたかったのか?

 

 ともあれ、旧来の「エヴァ」のイメージを覆すような明るい、そして感謝の気持ちがこもった映画だと思いました。

 

 そして、なんか文章として入れ込むところがなかったので最後になってしまいましたが、「現実に帰れ」というメッセージだと揶揄されるラストシーン。あれは、「エヴァはただのアニメだ」という、以前の庵野がオタクに諭したかったメッセージとは、まるで逆のようなものに感じました。

 ラストでシンジが絵コンテに変化していき、シンジが「エヴァはただのアニメだ」という結論で自分を締めくくろうとしたとき、マリが現れ、世界が再び色づく。そして、シンジもマリも成長し、現実の街へと駆けていくというのは、「エヴァが現実と地続き」であり、「君たちがエヴァというものに使った金も時間も思考も、全て無駄じゃない」という、今までとは正反対の庵野監督からのメッセージではないのかな、と。

「なぜ真希波はシンジに固執するのか」とか、「惣流アスカはどこにいったのか」とか、エヴァとしての細かい謎はいくらでもあると思いますが、もうそういうのはうっちゃって、エヴァ要素はライブ感で楽しむエンタメ映画として見るのがいいと思います。

 

 それにしても、本当にループものだったことで、エヴァ麻雀も、エヴァ2も、シックで髭をそってめちゃくちゃテンション高い顔してるゲンドウもすべて現実になろうとはね。