「君、影薄いね」と貴方は言った

ネットの片隅に生きるだらだらしたアラフォーブログ

人が死ぬということと、人の生き方について

 最初に。
 今回は、私自身の人生観と、死生観の話です。
 私の半生において、身近な親族の4つの「死」と触れ合ったということ、それについてこう感じたという、辛気臭いエピソードしかありません。本来は、これに続くエピソードを書こうと思っていたのですが、あまりに長くなったためです。
 特に、盛り上がったり、話が落ちたりすることはありません。
 
 閑話休題
 
 さて。
 私もいよいよ三十代も半ばになりまして、将来の身の振り方や、親の介護等、人生において生じていくであろう問題について、色々と思いを馳せる年頃に差し掛かってまいりました。私自身の半生を振り返ってみますと、平々凡々な家庭に生まれながらも、まぁ大分、恵まれた人生を送っているのではないかと思います。
 そうした恵まれた平々凡々な人生の中にも、いくつか、人生観に影響を与えるターニングポイントというものは存在します。私にとっては、そのひとつが「人の死」ではないかなと、こうして振り返ってみると思うわけです。
 
 さて、私が最初に身近な人間の死に触れたのは、父親でした。
 この父親というのは、私がいくつだったか、一桁か、二桁の年齢になる前くらいに母親と別居状態になり、それからいつだかに一度会ったきり、二度と会うことはありませんでした。母親がいうには、見栄っ張りな男で、金も持っていないのにやたらとまわりには気前がいい男だったそうです。当時のことを考えると、ここには書くことを憚られるようなエピソードもあり、本当に金がなかったのだと思います。しかし、今になると、確かに私もその血を引いているなと感じる次第です。

 さて、この父親は、確か私が小学校の低学年だったころ、会社をやめて事業を起こそうという話で騙され(単純に失敗しただけだと思いますが)、当時住んでいた一軒家を売る羽目になりました。その後、マンションに引っ越して数年、その後もなんだかんだとあり、父親とは別居することになりました。それから一度だか会った覚えがありますが、十数年、音沙汰がありませんでした。
 次に話を聞いたのは、私が大学を卒業する年のこと。女を作って二児を儲けていた(らしい)父親は、茨城だか群馬だか忘れましたが、そこら辺の工場で働いていたそうです。そこで、不摂生でも祟ったのか、脳梗塞になって倒れ、病院をたらい回しにされた挙句、仙台へと戻ってきました。
 現地の女が身元を引き受けなかったのでしょう、身寄りのない父親の入院費を払ってほしいと、まだ籍を抜いていなかった母親のもとに連絡がきたそうです。母親は、父親のことを嫌っていたのですが、それでも人情のある人だったので、入院費を建て替えてやり、何度も見舞いにもいったそうです。私はといえば、「見舞いにいくか?」と聞かれましたが、「いかない」と答えたきりで、母親もそれに関しては、それ以上、何かいうことはありませんでした。

 さて、その事件を機に、母親は父親と離婚する決意を固めました。冬の寒い日、私も家庭裁判所に趣き、どちらの籍に入るかという手続きをとったのを覚えています。
 元から、父親からは離婚届が送られてきており、相手の女からも「さっさと別れてくれ」と何度も電話を受けていたそうで、母親は確か、「自分は薄情なのかもしれない」という葛藤があったと言っていたように思いますが、私は別に薄情だとか、そういったことは思いませんでした。元から薄皮一枚でしかつながっていなかった縁を、ここで正式に断ち切ったという、ただそれだけのことです。

 ある日、母親が見舞いに行くと、病室に父親はいませんでした。話を聞いたところ、退院していったということだそうです。入院代を建て替えてもらった挙句、見舞いにまできてもらった相手に、退院日も伝えずにいなくなるとは、本当に情もなさすぎて笑ってしまいますが、まぁ、そういう人なのでしょう。
 母親はというと、内心はショックだったのかどうなのか、見た目からは推し量ることができませんでしたが、「もういなかった」ということだけを告げたきり、そのことについてはもう触れませんでした。

 その後、私は就職し、群馬県で働いていました。
 5月頃、母親から急な連絡があり、「そちらに行くから」という話がありました。急にどうしたのかと聞くと、行方をくらました父親は脳梗塞の後遺症を抱えながらもどこぞの工場で働いていたそうなのですが、結局、そこで倒れて亡くなった、その件で行く、ということでした。
 母は、仙台市から送られてきた、遺産相続に関するはがきを持ってきました。私は、父親がどんな資産を持っていたのかは知りませんし、興味もありませんでしたので、遠慮なく「相続を放棄する」と書きました。どう考えても資産など持っていなかったでしょうし、変に欲を出して、父親の抱えていたかもしれない借金を私が抱えるはめになってはかなわないと考えたからです。

 これで、父親に関するエピソードは終わりです。
 その後、父がどこに葬られたのか、現地の女とその二人の子供(姉妹らしい)がどうなったのかもわかりません。ただ、母親がいうには、「あんたが子供を作ればそれでよかったんだが、できなさそうだし、もしあんたが死ぬときは、資産を全てどこかに寄付してからにしろ。そうでないと、遺産が見ず知らずの異母姉妹に行くことになる、それは業腹だ」ということです。
 
 さて、私の死生観にもっとも影響を与えなかった父親の話が大分長くなりました。
 次からは、少し手短にしていきたいと思います。
 
 次に私の周囲で亡くなったのは、母方の祖父でした。
 私は小さい頃、両親が共働きだったため、昼間は祖母の家に預けられておりました。そのため、祖母や祖父、伯父が、私にとって「家族の団らん」だったといえる部分もあります。
 この祖父の死は、特にこれといったエピソードはありませんでした。確か、九十二だったか、三だったか、そのくらいの年齢まで生き、年相応に入院し、危篤になり、亡くなりました。祖母の家の中では、順当に大往生した、といえるのではないかと思います。
 
 母親が、週末ごとに祖父の見舞いにいくので、車を持っていた私も、何回か足となって病院に通いました。私は、祖母宅ではとても可愛がられておりましたので、私がいくと、祖父も心なしか嬉しそうな表情を見せていたように思います。

 祖父の見舞いに通う中で、もっとも印象深いのは、次のような場面です。
 その日も、祖父は病院のベッドで寝ておりました。その頃には、もうずいぶんと痩せており、腕には点滴かなにかの管が、何本もついておりました。声をかけると、祖父は元々意識があったのか、すぐに目を覚まし、私を確認すると、「おお、お前か」と声をかけてくれました。そのとき、祖父は点滴の管が繋がれた腕を、それとはなしに布団の中に隠そうとしたのです。

 私がそのことを母にいうと、「おじいちゃんは、あんたに(腕を)見られたくなかったんだよ」と言いました。私は、そこで価値観を改めることになりました。病床にいる老人が、相応の治療を受けていることについて、私たちは特に何も思わないかもしれません。しかし、それを受けている側は、それを恥とか、見苦しいと思うこともあるのです。
 これは何も、祖父だけの話に限りません。他人から見ればまったく何でもないようなことに対して、非常にコンプレックスを抱えている人は、世の中にはたくさんいます。そう感じる相手に対して、私たちができるのは、「それは恥ずかしくないことだ」と声をかけることではなく、見ないふりをする、なんでもないように接することだなと、私はこのときに感じました。

 祖父が亡くなったのは、東日本大震災の直後でした。元から、意識も朦朧としていた状態でしたが、震災で特に被害を受けたわけでもないのに急逝し、震災自体が、余命のないものをまとめて刈り取っていったのだと思ったことを覚えています。

 次に亡くなったのは、伯父でした。
 これは、私にとっては大変ショックな出来事でした。伯父は、私にとっては父親代わりのような人だったからです。
 伯父が亡くなる当日、私と母は、祖母の家に顔を見せにいっていました。というのも、祖父が亡くなってからほとんど間もない時期で、まだ色々と用事があったからです。祖母の家は、築何十年かわからないような長屋で、正直いって、あまりいい環境とは言えませんでした。その中で、老人ふたりの面倒を見ていた伯父の心境は、いかばかりだったでしょうか。伯父は、「あまり、家に帰りたくない」と周囲に漏らしていたそうで、老々介護という現実が、伯父に大きな負担を強いていたことは想像に難くありません。

 さて、祖母宅を後にした私と母親は、その日、回転寿司を食べて帰りました。
 家に帰宅してから数時間後の、確か21時頃、母から急な電話がありました。
 
「伯父さんが倒れて病院に運ばれたらしい。あんたも来て」
 
 実のところ、伯父はこの少し前にも、内蔵を悪くして倒れ、入院していました。その時は、さほど深刻でなかった(ように見えた)ものですから、正直なところ、この時の私は、「また倒れたの、面倒だな」と思ったことを覚えています。しかし、倒れた、きてくれと言われれば、断るわけにもいきません。私は、身支度を整え、軽い気持ちで病院に向かいました。
 夜の病院は暗く、不気味でしたが、心電図の音は正確に聞こえてきており、私は特に根拠もなく、「大丈夫だ、助かるだろう」という気持ちで、取り乱す母親をなだめ、病室の外でしばらく待っていました。しかし、いくら待てども病室に招き入れられることはなく、何十分か、何時間経過した頃、ようやく医者が姿を見せました。そして、「残念ながら、もう助かる見込みはありません」と告げました。
「どうせ助かるだろう」と思っていた私は、上手く反応できませんでした。通された病室には、まだ脈のある伯父が横たわっていました。母は、伯父のことを「あそこがダメだ、ここがダメだ」とよくいっていたのですが、内心ではとても頼りにしていたので、手を握り、涙ながらに声をかけました。
 私はというと、伯父の手を上手く握ることもできず、声をかけることにもよくわからない抵抗があり、微かに呼びかけるくらいしかできませんでした。このことは、今でも、私の中に大きな後悔として残っています。

 それからほどなくして、伯父は亡くなりました。

 私の中には、いくつもの後悔が残りました。伯父が救急車で運ばれたことを聞いた際に、「面倒だ」と思ってしまったこと。よくわからない抵抗から、きちんと声をかけてあげられなかったこと。亡くなった当日に伯父に会っていた時、一緒に食事でもどうかと声をかけていたなら、この死は避けられたのではないかということ。

 さまざまな後悔も、しかし、時間を巻き戻して「なかったこと」にすることはできません。だからこそ、私は、人と人との関係においては面倒がらず、変に格好をつけず、我慢をしてわだかまりを残すようなことはしない、常に後悔しないような選択をしなければならないと、このときに感じました。

 私も母も、この件のあと、しばらく塞ぎ込むことになりました。私は、仕事をしている間も、葬式の最中も涙が止まらず、しばらく「死」というものに対して極端に恐怖に怯えるようになりました。伯父の死は本当に突然だったもので、自分もいつ、死んでしまうかわからないと怯え、それがパニック障害に繋がる結果になりました。
 母は気持ちが完全に塞ぎ、無気力状態になってしまいました。それでも、なんとか毎日仕事にはいっていましたが、休日などは部屋の掃除もせずに丸一日ぼーっとしてすごしていたようです。母は、毎週、墓参りにいくようになりました。私も、それに付き合って何度も墓に足を運びました。数ヶ月もした頃には、私の中ではようやく整理がついてきたのですが、母の中ではまだ気持ちの整理がつかなかったようで、毎週の墓参りは1年近く続きました。墓参りとは、死んだ人のためではなく、生きている人間の気持ちの整理をするために行うものなのだということ、その必要性を、このときようやく理解しました。

 最後に亡くなったのは、祖母です。
 伯父がいなくなってしまったので、祖母は、叔母の家に引き取られました。それから数年、叔母の家で生活していました。私も、墓参りのたびに叔母の家を訪れました。祖母は、祖父と伯父を立て続けに亡くし、しばらくふさぎ込んでいましたが、元来、精神の太い人でしたので、やがて普通に振る舞うようになりました。それでも、伯父のことを話すときには声を震わせていたので、親より先に死ぬということは、本当に親不孝なことだなと、祖母を見ていて感じました。

 さて、祖母は以前、脳梗塞を起こして入院したことがあるのですが、その際に、「今までにも何度か脳梗塞を起こしている」と診断されるなど、やたらと身体が頑丈な人でした。それでも、寄る年波には勝てず、体調が悪くなり、入院することになりました。検査の結果、祖母は大腸がんだということが判明しました。
 この知らせは私たちにとってもショックなものでした。しかし実際のところ、高齢の大腸がんは進行が極端に遅く、大腸がんとは別に、祖母は腸から謎の出血が止まらない状態だったため、がんではなく、あと2〜3年の間に、失血の方で亡くなるだろう、という診断でした。治療の施しようもないので、祖母は退院することになりました。
 入院した祖母は、自分の余命がいよいよだと思い込み、すっかり弱ってしまっていました。「この病院から、もう出られないだろう」と悲観的になり、ずいぶん元気をなくしてしまっていました。しかし、退院が決まったことを告げると目に見えて元気になり、笑顔も浮かべるようになりました。
 
 祖母が退院してから数日後、私は本を買いました。
 祖母は池波正太郎の本が好きだったのですが、あまり蔵書がなかったため、叔母が図書館に借りにいったりしていました。そこで、私は池波正太郎の時代小説を2冊買い、母に届けてもらいました。本当は自分で持っていって顔を見せた方が、祖母が喜ぶことはわかっていたのですが、その時期は仕事が忙しかったこと、余命2〜3年ならば、すぐにまた顔を見せる機会もあるだろうと思っていたのです。
 しかし、それからほどなくして、祖母は亡くなりました。死因は、大腸がんでも失血死でもなく、心臓でした。祖母はほぼ寝たきりだったため、血栓ができていたのでしょう。その血栓が原因で、「気持ち悪い」といったまま意識不明になり、そのまま亡くなってしまいました。私は、伯父のときの後悔をいかすことができず、また後悔をすることになりました。
 あとから聞いたところによると、祖母は私が贈った本を、何度も何度も繰り返し読んでいたそうです。それを聞き、ああ、退院してから一度くらい、顔を見せておくべきだったなという想いが強まり、今でもうっすらと涙が浮かんでしまいます。

 これらの4つの「死」にまつわるエピソードは、私の死生観、人生観に、大きな爪痕を残しました。
 決して後悔しないよう、自分に正直に生きること。他人に対して、正直に、真摯に接すること。面倒だと思う気持ちを捨て、相手を慮り、恥や外聞を気にせずに、声をあげるときは声をあげ、心配するときは心配し、時に怒り、悲しみ、喜び、楽しむこと。そうした人生において「素直」に生きることが、取り返しのつかない後悔を産まない生き方なのだ、そういう風に生きるべきなのだと、今の私は考えている次第です。

 本来であれば、こうしたエピソードを詳細にネットに書くことは、憚られることなのかもしれません。
 実際のところ、私も、何度も書こうと思い、そのたびに手を止めてきました。何か、死者に対する冒涜に繋がるような、そういう気持ちがあったからです。しかし、いずれ私の記憶も曖昧になり、その時の気持ちも消えていってしまうのだろうと思うと、こうして書き残しておくことで、その時の気持ちや、その人のことを忘れずにいられるのではないかと思い、こうして筆を執りました。
 
 特に何の面白みもない私の記録ではありますが、もしも、誰かが何かを考える切っ掛けになれば幸いです。