「君、影薄いね」と貴方は言った

ネットの片隅に生きるだらだらしたアラフォーブログ

2030年の老齢オタク

 2019年も残すところあと数時間となった。

 私も30も半ばを過ぎ、気力の衰えや、新しいことに取り組むことへの腰の重さ、新しい分野への視野の狭さを日々感じる今日このごろである。

 

 さて、突然だが、私はとても無学だ。無学な私は、日々の生活において、さまざまな「学び」に出会う。これらは、恐らくは一般的な人生を歩んでいる方なら、「そんなことはもう知っているよ」ということばかりであろう。

 本題からは外れた話が、この数年、「気づき」を得ては、よくよく考えると諺などにまったく同じ意味合いの言葉がある、ということが何度もあり、人類の歴史の積み重ねを実感することがとても多い。先人の教えは偉大である。

 

 話は戻るが、2019年に、私は初めて「ライブ」というものに行くことになった。井上陽水の活動50年記念のライブである。私が自分でチケットを取ったわけではなくて、親に同伴する形での参加だ。私自身は、特別に井上陽水のファンというわけでもなく、参加するにあたっては特に何の予習もしていない程度の気構えである。

 

 当日、会場には多くの人で溢れかえっていた。その盛況ぶりは、井上陽水というシンガーの実力、世間に与えた影響を窺い知るには十分だった。とはいえ、井上陽水にも流行した”世代”があり、その世代を考えると、ファン層が高齢であることは明白である。会場の右を見ても左を見ても、私より年上な方ばかりが目についた。あくまで見た目からの判断だが、40~50代は若い方で、60代、70代も珍しくはなかった(そもそも、井上陽水自体が71歳なのだから、別に不思議ではないだろう)。

 

 私の席は通路側で、左が40代半~50過ぎくらいの、この会場の中では比較的若い夫婦で、前の席が親子なのかなんなのか、70代くらいの女性が1人と、それよりは年下と思われる女性2人の3人組だった。

 

 ライブが始まった。主題とは外れるので詳細は省くが、井上陽水というビッグネームに相応しいライブだった。私でも知っているような有名曲が歌われ、曲と曲の間に井上陽水の軽妙なトークに会場は盛り上がった。

 

 さて、ライブも終盤に差し掛かり、スタンディングの指示があった。それまでは観客は座ってライブを楽しんでいたのだ。そこで披露されたのは、確か「氷の世界」だったと思うが、この曲が流れるやいなや、私の前の座席の女性三人組が、それはもうノリにノリ始めたのである。

 70代くらいの女性などは、まっすぐに立てず、足元もおぼつかない様子だというのに、腕を振り、身体すべてを使ってリズムに乗り、若々しさすら感じさせるほどだった。

 

 その様子に、私は雷に打たれたような思いだった。

 それまでの私は、なんとなく、「年甲斐もなくはしゃぐことは恥ずかしい」という漠然とした考えを持っていた。ライブにしろ、他のなにがしかの趣味にしろ、私の視界に入る範囲内では、それを消費する側の人間が高齢化していっている、と私は思っていた。要するに「オタクが高齢化していること」を私はどこかで問題だと感じていて、将来的に、どのようにコンテンツに線引していくか(例えばそれは今まで参加していたイベントへの不参加であったり、趣味自体を完全に辞めてしまうことだったり)、つまり「オタクの幕引き」について考えることが何度かあった。

 

 それに対する答えを、この女性たちに見たような気がしたのだ。

 つまり、「そのままで良い」のだ。年齢がいくつであれ、楽しむことに遠慮をする必要はないのだ。逆に、何かを楽しもうとする以上、それに全力に取り組まなければ、本当の楽しさは得られないのだ。

 

 ましてや、今回の場合は、「井上陽水」のライブである。エンターテイナーと受け手の間で、長い時間をかけて構築されてきた信頼関係の前には、年齢などというものは大した意味を持たないのだ。「楽しませる」ために送られるメッセージを、ただ楽しんで受け取る。年齢、性別、そもそもオタクであるかどうかに関わらず、それこそが、あらゆるコンテンツを楽しむために必要なことなのかもしれない。

 

 左の夫婦は、それを見て嘲笑するようにひそひそと何事かを話し合っていた。もちろん、こういう反応をされることもあるだろう。だが、周囲の目など気にする必要はないのだ。エンターテイナーと受け手の間で、世界は完結しているのだから。

 

 完成された世界観は、時に、それを外から眺めたとき、異様に映ることもある。しかし、そうした視線に配慮することに、どれほどの価値があるだろう? 「発信し、受け取る」という美しく完成されたサイクルに関与しない存在の意見など、取り入れる価値は少しもない。

 「人が楽しむ」ために提供されるものを、100%楽しめるのであれば、どのような楽しみ方をしようとも自由であり、年齢や性別などといった要素は「楽しみ方」の障害と考えることはないのだ。

 

 もちろん、他人に迷惑をかけけるような方法は論外だが。