「君、影薄いね」と貴方は言った

ネットの片隅に生きるだらだらしたアラフォーブログ

ヴイアライヴ解析・完全攻略

 ヴイアライヴが発表された時、視聴者全員プロデューサーとかいうあまりにも混沌としたコンセプトヤバすぎだろと思ってたけど、実際の関わり方を考えると、確かに一理あるとは思わされる。


 関係性について考えると、視聴者と候補生の関わり方は、アイマスで言うところのプロデューサーとアイドルの関係に近い。候補生たちは(本人たちがそれを意識しているか、してないかは別にして)放送中に頻繁にアンケート機能を使った選択肢を提示してくる。


 普段、視聴者はコメント欄を通じて候補生に意思を表示しているが、何らか重要な意思決定を行う際は、この「選択肢」の結果が候補生に明確な影響を及ぼす。

 例えば、「挨拶は何にしようか?」という話題で、提示された2つの選択肢からアンケートで挨拶を決定したことがあったが、これはゲーム的な観点からすれば「挨拶決定イベント」とでもいうべきイベントだろう。ここで選んだ選択肢が、ゲーム終了時までずっと使われるという具合の。


「4つのpostのうち、投稿してから3分でもっともいいねがつくのはどれか?」という企画もあった。これはゲーム的には「信頼度上昇イベント」のようなものだと解釈することができる。選択肢に重要な意味はないが、結果がランダムで、選択肢と結果が一致すると信頼度2段階上昇のようなものだろうか。


 こう考えると、候補生の配信は、ひとつひとつが「候補生のコミュ」と考えることができる。視聴者は、コミュの中で、コメント欄、選択肢(アンケート)、スーパーチャット(投げ銭)で候補生に影響を及ぼすことができる。


 ゲームと違うのは、視聴者が候補生に与える影響は、全くの未知数であるということだ。


 ゲームでは、選択肢でキャラクターの行動が変化するように見えても、反応はあらかじめ定められたものでしかない。しかし、候補生は生身の人間であり、極端な話、選択肢の結果が気にいらない場合は従わないこともあるだろう(ただ、基本的には従うようにという指導はあり、何らかの折衷案のようなものを提示してくるとは思う)。つまり、我々のアクション・リアクションによって、候補生たちは行動を変化させ、「視聴者の望むアイドル」に変容しつつ人気獲得を目指し、一方で、視聴者もそうしたアイドルの努力に応え、更に応援していくというわけだ。


 考えてみれば、これは何もヴイアライヴに限った話ではなく、ライブ配信コンテンツ(いわゆるVtuber的な)では一般的な光景だが、このスキームをヴイアライヴでは「プロデュース」と定義しているということだろう。


 企業Vである以上、候補生たちはゲーム配信等ができず大変だろうと感じていたが、こう考えればゲーム配信ができないというよりしない(まあ局所的にすることはあるだろうが)という方が正しいのかもしれない。なぜなら、ゲーム配信がメインでは、視聴者は候補生に影響を与えることができないからだ。


 この、「候補生が企画を立てる大変さ」については、「週1配信」「アイドル育成プロジェクトでお題を出すことによって、配信の1~2枠はそれに充てることができる」という点でフォローしているように感じる。このサイクルはよく考えられていると思う。また、週1配信、配信時間1時間程度は、単推しでは物足りないため、箱推しに誘導しやすいという点もあるだろう。今後、「他の候補生とのエピソードが披露され、その結果、その候補生の配信も見たくなる」というような誘導が期待される(まあ、現状の視聴人数だと大半被ってると思いますが……)。


 さて、以上のような考えを前提にして、「ヴイアライヴとは何なのか?」を考えると、実はヴイアライブとはアイドル育成プロジェクトではなく、視聴者参加型の人生応援バラエティといったほうが近いことに気付かされる。


 2024年2月という明確なゴールが設定されている以上、視聴者と候補生は、そこに向けてひたすら進んでいくことになる。その過程で、少なくない時間を共有することになる。その集大成として「デビューできるか、できないか」があるわけだが、勿論デビューできれば嬉しいが、仮にデビューできなくても、その過程と結末には”ドラマ”がある。

 

 視聴者の目的は、2024年2月という結末を、よりドラマチックに迎えることである。であれば当然、できるだけ初期から、できるだけ前のめりに参加するほうが、「ヴイアライヴ」というコンテンツを満喫することができるだろう。

最近、ヴイアライヴを見ています。

 最近、ヴイアライヴを見ています。
 知らない方にご説明いたしますと、めちゃくちゃ簡単に言えばアイマスVtuber企画です。ただ、アイドルデビューは決まっておらず、候補生たちが来年2月まで、配信などで人気を獲得し、デビューできるかどうかを賭けて活動しています。

 古いところで言えばVtuberASAYAN、にじさんじをご覧の方であればバーチャルタレントアカデミーといえば、まあ大体どんなものかご理解いただけるかと思います。

 こういった企画を追うのは、実は初めてなのですが、候補生はそれぞれ面白く、努力家で発想力もあり、なかなか楽しめています。配信時間がほぼ決まっているため、テレビやラジオ感覚で楽しめるところが性に合っているのかもしれません。活躍する孫を見守る目線で見ています。

 せっかく楽しんでいるので、今日は応援も兼ねて、そのヴイアライヴの個人的な「楽しみ方」をご紹介したいと思います。勿論、これは「こういう楽しみ方をしている」という一個人の視点からの記事でしかありませんので、これが「正解」というわけではありません。この記事が、ヴイアライヴの面々を知る一助、あるいは、楽しみ方のヒントになれば幸いです。

候補生紹介:
 現在、ヴイアライヴでは3人の候補生が活躍しています。ちなみにキャラクターデザインは森倉円さん。キズナアイをデザインした人ですね。みんな魅力あふれるキャラ造形です。

レトラ:
 本名「サラ・レトラ・オリベイラ・ウタガワ」。長いのでレトラと呼んで欲しいとは本人談。ヴイアライヴの自由奔放担当。イメージカラーは黄色です。挨拶は「バモス!」(ポルトガル語で「ついてきて」的な意味だそうです)。黒歴史ノート(ポエムノート)を持っています。

 アイマスの黄色枠の例に漏れず、自由奔放な行動や言動で、周囲を巻き込むムードメーカーです。まだ配信を見始めて1ヶ月程度ですが、直観的に「アイドル」とはどんな存在なのか? どう振る舞うべきなのか? をとらえており、同じ黄色のイメージカラーを持つ星井美希を彷彿とさせるキャラクターだと感じます。

 砕けた口調や、気分屋な態度と裏腹に、目標に対して非常に真摯で真面目であり、「一番年長者だから、他のふたりを引っ張っていきたい」という責任感も持ち合わせています。また、自分の顔の良さを理解しており、ファンサービスにも余念がありません。

 現時点の話ですが、「3人の中で、一番カリスマを持ったアイドルになる可能性を持っているのは誰か?」と聞かれたら、私はレトラと答えます。ちなみにめちゃくちゃ陽キャです。

上水流宇宙:
 この一見「じょうすい……何?」という名前は、「かみずるこすも」と読みます。ヴイアライヴのボケ担当。イメージカラーは青色です。挨拶は「めておつ~散ッ!」。この「散」は、挨拶を決める配信で、何人かの視聴者に「散はやめて」と言われたにも関わらず、本人が気に入ってつけられました。しいたけが苦手。

 2007年生まれですが、芸歴は10年だそうで、3人の中ではもっとも長い芸歴を持っています。そのため、落ち着いた雰囲気があり、3人の中でもっとも年長者のような印象を受けます(実際は違いますが)。他のふたりが自由奔放すぎるため、3人揃う場ではツッコミ役、進行役にならざるを得ない場面がよくあります。

 しかし、実際には前述の通り、3人の中でもっとも芸人気質で、隙あらば細かくボケようとしてきます。また、時々ぽろっと辛辣なツッコミを入れたり、「wktk」「わこつ」のような明らかに令和とは思えない単語を使うなど、3人の中ではもっとも見た目や声から連想されるイメージとギャップがあるキャラクターだと思います。そのギャップと、視聴者からのツッコミに恥ずかしそうにしつつもノッてくるノリの良さが、上水流宇宙の魅力のひとつです。

 芸歴のせいなのか、3人の中ではおそらくもっとも多芸で、イラストを描いたり、簡易的なロゴであれば自分で作ることができます。また、企画力がもっとも高く、配信では様々な企画を披露してくれます。個人的には、3人の中でもっとも安心して配信を見ることができます。

 Twitterでは、そうした特技を活かしたツイートを見ることができますので、ぜひご覧になってみてください。

灯里愛夏:
「ともりまなか」と読みます。ヴイアライヴのカオス担当。イメージカラーは赤色です。決して消し炭の黒ではありません。挨拶は「やっぴー」。他のふたりは配信で挨拶を決めましたが、愛夏だけは最初からこの挨拶を使っていました。愛夏を代表するワードです。「シティガール」と言われると調子に乗るという特徴を持っていますが、全くシティガール要素がなく、そのことを他のふたりにも辛辣に突っ込まれています。

 ふわっとした可愛らしい声音や、人懐っこい話し方は、親しみやすい等身大の女の子を思わせます……が、一度口を開けば場が混沌とし、視聴者は多くの時間、頭の上に疑問符を浮かべたり、発言にツッコんだりしながら配信を見ることになります。

 愛夏は、他のふたりに比べると非常に好みが分かれるキャラクターをしていると個人的には思います。愛夏が好きになれるかどうかは、定期的に醸し出される「人生ナメてる」感を受け入れられるかどうかにかかっています。

 誤解のないように言っておきますが、愛夏自身は、非常に真面目に候補生活動に取り組んでいます。しかし、ときおり、どうしようもないほど人生に対する見積もりの甘さ、やらかしがあっても「ゆるしてぴょん☆」とでも思っていそうな軽さを感じさせる場面があり、そこが受け付けない人は受け付けないかもと思います。個人的には、この”Z世代感”とでも言うべきポイントは、愛夏の魅力のひとつだと考えています。適当いいました。Z世代の皆さん、申し訳ございません。

 一方で、他の2人が多芸なのに比べて、自分にはなにもないことを悩んでいます。それでも前向きに、2人に追いつこうと努力していたり、何らかの折に触れて、同期2人に対する尊敬の気持ち、視聴者への感謝の気持ちを表現するところを見ると、ついつい応援したくなってしまいます。

 性格上、いじられの対象になってしまいやすく、正直、帯番組ではちょっと可哀想に感じる場面もありました。前述のコンプレックスのせいか、他のふたりに比べてアイドルの振る舞いができていないと感じているような場面では、所在なさげにしていたり、空回りしてしまうシーンもありますが、そういうところも含めて「初々しさ」があり、3人の中ではもっとも人気を獲得できる可能性を感じています。

土佐兄弟
「とさきょうだい」と読みます。ワタナベエンターテイメント所属の芸人で、「高校生あるある」ネタが有名。候補生の中ではもっともツッコミ力に長け、youtubeで放送している「アイドル育成プロジェクト vα-liv」ではMC兼ツッコミを担当しています。嘘です。土佐兄弟は候補生ではありません。しかし、基本的にボケ倒し、天然、自由奔放な候補生では番組がまともに進行できないため、この企画にとって必要不可欠な人材です。

 放送中もきちんとコメントを拾って反応してくれるたり、定期的に内輪な盛り上がりを見せてぐだぐだになりがちな3人をあしらったりと、八面六臂の活躍をしています。

キタムラさん:
 ヴイアライヴの6th Man。ヴイアライヴ視聴者ならその名前は誰もが知っていますが、その姿を見た人は誰もいない、謎の存在です。

 キタムラさんについて知りたい方は、「アイドル育成プロジェクト vα-liv」の5月前編・後編を見てください。

 3人の活動や、帯番組についても書こうと思っていたのですが、長くなりすぎてしまったのでとりあえずここまで。また機会があればそのときにお話します。

シンエヴァを見た感想

 以下、シンエヴァを見た感想になりますので、ネタバレご法度な方はブラウザかタブを閉じてください。

 

 

 

 

↓↓↓↓以下ネタバレ↓↓↓↓

 

 

 

 

 シンエヴァ劇場版を見てきました。

 そもそも全然エヴァンゲリオンというコンテツに興味がなくて、TV版も流し見でしたし、EoEは流行ってたので劇場に見に行ったものの、ラストの意味不明さに消化不良。新劇場版は一回も映画館で見たことがありません。

 そんな私ですが、シンエヴァのネタバレ概要を見て「ぴん」と来たと言うか、思うところがあって、シンエヴァを見に行くことにしました。

 

 感想としては、「めちゃくちゃ感謝にあふれた映画だな」という感じでしたね。

 私はエンタメというのはそれ単体で完結しているべきで、盤外の事情について考慮するのは邪道という考えを持っているのですが、シンエヴァというか、新劇場版シリーズに関しては、盤外の事情は考慮する必要があるなと感じます。なぜなら、この映画は庵野秀明からエヴァファンや関係者に向けたビデオメッセージのように感じたからです。

エヴァに監督からのメッセージが込められているなんて、そんなのは前から言われているじゃないか」というのはごもっともなんですが、シンエヴァを揶揄する際に言われる「庵野のメッセージ」は、ちょっと違うかな、と思っていて。

 確かに、現実は素晴らしい、みたいなメッセージではあるんだと思うんですが、なんというか……ここに込められたメッセージは、もっと単純で、純朴というか。この映画に込められているのは、ただ庵野監督自身の気持ち、つまり、「世間は素晴らしいものだと気付きました」「気づかせてくれてありがとう」「辛抱強くファンでいてくれてありがとう」という感謝の気持ちであって、「お前たちも現実と向き合うべきだ」みたいな、他人の生き方を矯正しようとメッセージを押し付けてくるような、EoEのときの傲慢さや幼稚さはすっかりなくなっているように感じました。むしろ、「私も、皆さんのおかげで大人になれました」という表明であり、「オタク、あの(旧劇)ときはごめんね……」みたいな、謝罪すら感じました。

 

 庵野監督は、「同じエンタメを作るなら、アニメじゃなくて特撮を撮りたい」としか思っていないんじゃないかと私は思っていて、だからこそ、延々引きずってきたエヴァには決着をつける必要があったと思うんですよね。

 で、「じゃあ、エヴァをどういう風に終わらせるか?」と考えたときに、「エヴァをエンタメとして昇華しよう」という結論になったんじゃないかと。序の後半や破、そしてシンは、かなり「わかりやすく気持ちのいいエンタメ」として作ろうとしているな、と感じます。

 一方で、Qは旧劇のような、いわゆる「いつものエヴァ」だった。それはなんでだろうと考えていたんですが、もしかすると、「エヴァをエンタメとして終わらせることで、裏切られるエヴァファンもいる」と思い直したのかもしれませんね。

 エヴァの持つ神秘的な部分に惚れたファンというのも多かったわけですから、エンタメエヴァは確かにわかりやすく面白くて「エヴァ」というコンテンツが持つ神秘性を剥奪し、「終わらせる」には一番簡単な方法かもしれないけど、それだと「エヴァファン」に報いることができない。じゃあ……ということで、元々三部作の予定だった新劇場版シリーズが、Qを挟んで四部作になったんだとすると、そこにはかなりの悩みがあったんじゃないかと推察します。まぁ、ただの妄想ですが。

 ただそれでも、「ただのエンタメで終わらせるのではない、今までのエヴァ全てに決着をつけて終わらせる」という考えを庵野監督自身が持っていたんじゃないかな、と私が思うのは、作中の描写にそういう部分が多いからです。

 特に村編では、無気力なシンジ(鬱病庵野)、それを責めるアスカ(多分、無気力な自分を責めるもうひとりの内面的な庵野)、社会とふれあい人格を獲得していくレイ(ジブリとか手伝って養生する庵野)という、「鬱病だった頃の自分がどうやって立ち直ったか」のような描写が延々続きます。そこで少し立ち直ったシンジに、大人になったトウジが「自分の起こした行動で発生した事柄には、自分が責任を持って収集をつける」というようなことを話して、シンジも同じことを志すことになります。この考え方は、おそらく庵野監督の中では「大人」の考え方なんでしょうね。EoEでは「現実に向き合え」というメッセージを込めておきながら、あの映画はまったく、自分が起こした現実(エヴァブーム)を収集しようというつもりがなかった。ただただ、実写の映像を取り込んだりして、「お前たちは反省しろ」「お前たちが変われ」というような、押し付けがましいメッセージしか発信しなかった。つまり、庵野監督は、他人に変わるべきだと諭しながら、その実、自分は子供のままだったんですね。

 ところが、シンエヴァでは、そういうメッセージ性はなくなった。むしろ、「自分と向き合い、何をすべきかを考え、実行に移す」という、自分の内面との対話が重視されていたように思います。

 その結果が、シンエヴァのラストシーン近辺、赤い砂浜に寝そべるアスカは旧劇のラストシーンだし、絵コンテになっていくのはTV版のラストシーンで、そのどちらをも、「大人になった視点」から、旧来とは別な方向に筋道をつけた(製作者としての責任を果たした)のではないかな、と。これがつまり、冒頭で述べたような、「あのときはごめんね」という謝罪なんじゃないかと。

 それ以外にも、「式波アスカがシンジを殴りたかった理由」として、シンジは「三号機に乗っていたアスカを殺すことも助けることもできなかったから」という結論を出していますが、考えてみると、これは旧劇の「気持ち悪い……」という、謎のメッセージの「回答」なんじゃないかな、と思ったりして。シンエヴァはこんな感じで、色々と過去作の消化不良だったりする部分に対して、答えをくれているとシーンが多いなと感じました。まぁ、そもそも、「エヴァ」という不可解な物語に対して、急ぎ足ながらも「結末」を用意してくれたのですから、その時点でだいぶ優しいのですが。この「優しさ」を「軟弱化したオタクに対する諦観」と取るかどうかは人によると思いますが、私はそもそも、「オタクは自分たちで考察して、結論を導き出すべき!」というような古風でマッシブな考え方は単純に嫌いなので、この変化はありがたかったです。

 

 とまぁ、真面目に語るのはこれくらいにして、シンエヴァ、かなりエンタメ作品でしたね。というか、ぶっちゃけた話ですが、この映画のエヴァ要素って比較的どうでもよくて、庵野の感謝のビデオレターとエンタメ作品の合間に、とってつけたようにエヴァ要素が挟まってくる。で、そこだけめちゃくちゃ説明ゼリフだったり、巻きが入ったみたいに適当だから、何度も映画館で笑いそうになりました。「ああ~、なんか話はよくわからんけど、今”エヴァ要素”の回収ね~笑」という感じで受け流し得ました。

  全体的に「それっぽいことを言い出してるときは聞き流せばいい」というスタイルが後半は加速しすぎてて、適当な用語を叫ぶだけでエヴァ要素を消化してましたね。特に最後の「ネオンジェネシス……」とか言い出すところは、「で、出た~~~~~~~~最後にタイトル回収すると名作っぽくなるやつ~~~~~~~~~wwww」という興奮が抑えられませんでした。

 あと、自分が影響を受けたもの(?)に対するオマージュもすごい。セカンドインパクトの爆心地の謎の地上絵はイデオン(小説版)!? となりましたし、ネルフ本部には無人在来線爆弾ならぬ無人艦爆弾をぶちこむし、名前がないやつが職業体験するのは千と千尋だし、本当の最後に最後で、駅に成長した男女、そして神木隆之介の「君の名は。」リスペクトセットが来たときはマジで声が出るかと思いました。なんで君の名は。なんだ。ああいうのやりたかったのか?

 

 ともあれ、旧来の「エヴァ」のイメージを覆すような明るい、そして感謝の気持ちがこもった映画だと思いました。

 

 そして、なんか文章として入れ込むところがなかったので最後になってしまいましたが、「現実に帰れ」というメッセージだと揶揄されるラストシーン。あれは、「エヴァはただのアニメだ」という、以前の庵野がオタクに諭したかったメッセージとは、まるで逆のようなものに感じました。

 ラストでシンジが絵コンテに変化していき、シンジが「エヴァはただのアニメだ」という結論で自分を締めくくろうとしたとき、マリが現れ、世界が再び色づく。そして、シンジもマリも成長し、現実の街へと駆けていくというのは、「エヴァが現実と地続き」であり、「君たちがエヴァというものに使った金も時間も思考も、全て無駄じゃない」という、今までとは正反対の庵野監督からのメッセージではないのかな、と。

「なぜ真希波はシンジに固執するのか」とか、「惣流アスカはどこにいったのか」とか、エヴァとしての細かい謎はいくらでもあると思いますが、もうそういうのはうっちゃって、エヴァ要素はライブ感で楽しむエンタメ映画として見るのがいいと思います。

 

 それにしても、本当にループものだったことで、エヴァ麻雀も、エヴァ2も、シックで髭をそってめちゃくちゃテンション高い顔してるゲンドウもすべて現実になろうとはね。

2030年の老齢オタク

 2019年も残すところあと数時間となった。

 私も30も半ばを過ぎ、気力の衰えや、新しいことに取り組むことへの腰の重さ、新しい分野への視野の狭さを日々感じる今日このごろである。

 

 さて、突然だが、私はとても無学だ。無学な私は、日々の生活において、さまざまな「学び」に出会う。これらは、恐らくは一般的な人生を歩んでいる方なら、「そんなことはもう知っているよ」ということばかりであろう。

 本題からは外れた話が、この数年、「気づき」を得ては、よくよく考えると諺などにまったく同じ意味合いの言葉がある、ということが何度もあり、人類の歴史の積み重ねを実感することがとても多い。先人の教えは偉大である。

 

 話は戻るが、2019年に、私は初めて「ライブ」というものに行くことになった。井上陽水の活動50年記念のライブである。私が自分でチケットを取ったわけではなくて、親に同伴する形での参加だ。私自身は、特別に井上陽水のファンというわけでもなく、参加するにあたっては特に何の予習もしていない程度の気構えである。

 

 当日、会場には多くの人で溢れかえっていた。その盛況ぶりは、井上陽水というシンガーの実力、世間に与えた影響を窺い知るには十分だった。とはいえ、井上陽水にも流行した”世代”があり、その世代を考えると、ファン層が高齢であることは明白である。会場の右を見ても左を見ても、私より年上な方ばかりが目についた。あくまで見た目からの判断だが、40~50代は若い方で、60代、70代も珍しくはなかった(そもそも、井上陽水自体が71歳なのだから、別に不思議ではないだろう)。

 

 私の席は通路側で、左が40代半~50過ぎくらいの、この会場の中では比較的若い夫婦で、前の席が親子なのかなんなのか、70代くらいの女性が1人と、それよりは年下と思われる女性2人の3人組だった。

 

 ライブが始まった。主題とは外れるので詳細は省くが、井上陽水というビッグネームに相応しいライブだった。私でも知っているような有名曲が歌われ、曲と曲の間に井上陽水の軽妙なトークに会場は盛り上がった。

 

 さて、ライブも終盤に差し掛かり、スタンディングの指示があった。それまでは観客は座ってライブを楽しんでいたのだ。そこで披露されたのは、確か「氷の世界」だったと思うが、この曲が流れるやいなや、私の前の座席の女性三人組が、それはもうノリにノリ始めたのである。

 70代くらいの女性などは、まっすぐに立てず、足元もおぼつかない様子だというのに、腕を振り、身体すべてを使ってリズムに乗り、若々しさすら感じさせるほどだった。

 

 その様子に、私は雷に打たれたような思いだった。

 それまでの私は、なんとなく、「年甲斐もなくはしゃぐことは恥ずかしい」という漠然とした考えを持っていた。ライブにしろ、他のなにがしかの趣味にしろ、私の視界に入る範囲内では、それを消費する側の人間が高齢化していっている、と私は思っていた。要するに「オタクが高齢化していること」を私はどこかで問題だと感じていて、将来的に、どのようにコンテンツに線引していくか(例えばそれは今まで参加していたイベントへの不参加であったり、趣味自体を完全に辞めてしまうことだったり)、つまり「オタクの幕引き」について考えることが何度かあった。

 

 それに対する答えを、この女性たちに見たような気がしたのだ。

 つまり、「そのままで良い」のだ。年齢がいくつであれ、楽しむことに遠慮をする必要はないのだ。逆に、何かを楽しもうとする以上、それに全力に取り組まなければ、本当の楽しさは得られないのだ。

 

 ましてや、今回の場合は、「井上陽水」のライブである。エンターテイナーと受け手の間で、長い時間をかけて構築されてきた信頼関係の前には、年齢などというものは大した意味を持たないのだ。「楽しませる」ために送られるメッセージを、ただ楽しんで受け取る。年齢、性別、そもそもオタクであるかどうかに関わらず、それこそが、あらゆるコンテンツを楽しむために必要なことなのかもしれない。

 

 左の夫婦は、それを見て嘲笑するようにひそひそと何事かを話し合っていた。もちろん、こういう反応をされることもあるだろう。だが、周囲の目など気にする必要はないのだ。エンターテイナーと受け手の間で、世界は完結しているのだから。

 

 完成された世界観は、時に、それを外から眺めたとき、異様に映ることもある。しかし、そうした視線に配慮することに、どれほどの価値があるだろう? 「発信し、受け取る」という美しく完成されたサイクルに関与しない存在の意見など、取り入れる価値は少しもない。

 「人が楽しむ」ために提供されるものを、100%楽しめるのであれば、どのような楽しみ方をしようとも自由であり、年齢や性別などといった要素は「楽しみ方」の障害と考えることはないのだ。

 

 もちろん、他人に迷惑をかけけるような方法は論外だが。

ある少女の思い出を話そう。あるいはOne Shotというゲームについて

 ある少女の思い出話をしよう。

 私がその少女と出会ったのは、一年前だったか、二年前だったか……とにかく、夏の暑い日、確かお盆休みだったはずだから、ちょうど、今くらいの時期ということになる。

 

 ああ、その前にひとつ。

 これから話すことは、「One Shot」というゲームの、とても重大な内容を含んでいる。

 もしも、君にこのゲームをプレイするつもりがあるのであれば、今すぐにSteamでOne Shotを購入して、プレイしてから読み進めてほしい。

https://store.steampowered.com/app/420530/OneShot/?l=japanese

 

 大体、10時間くらいで終わる。

 戦闘は一切なくて、ごく簡単な謎解きをしながら進める話だ。

 別にどちらでもいいが、もし、この思い出話を見てから買おうか買うまいか決めようと思っているのであれば、まずは買ってプレイしてみてからの方がいいかもしれない。何せ、何の先入観も持たずにプレイできる機会は、人生でたったの一度きり――それこそ、”One Shot”なのだから。

 

※※※※※※

 

 さて、改めて、少女の思い出話をするとしよう。

 最初に言っておくけれど、これは本当にただの思い出話だ。

 ただ、なんというか……彼女と過ごした10時間は、私に特別な爪痕を残すことになった。その痕は、自分で思ったより深くついていたようで、今でもふと、彼女のことを思い出すことがある。だから、彼女と出会った何周年目かに、こうして思い出話を書き残しておこうと思ったのだ。

 

 まずは、”彼女”がどんな人物かを書いていこう。

 名前は「ニコ」。近頃は、寄る年波のせいか名前もおぼろげにしか思い出せなかったが、これを書いていたら思い出した。ニコは、二足歩行の猫としか言いようがない外観をしている、いわゆる獣人の女の子だ。とはいっても、彼女が暮らしていた世界では、それが一般的な「人間」らしい。年は、詳しくは知らないけれど、多分10かそこらだろう。自分のことを「ミー」と呼んでいて、とても特徴があるように思う。彼女の世界では、それが一般的なのだろうか? もしもまた会えたなら、そういう話も聞いてみたい。彼女の世界は、どうやら牧歌的な世界らしく、秋になると、ニコが見えなくなってしまうほどの金色の稲穂が、一面に広がり、たいそう綺麗だそうだ。

 私と彼女は、二人一緒に、滅亡に瀕したとある世界を救うために旅をした。

 彼女は、生身の身体で。私は、One Shotというゲームを通じて、彼女を導く”神さま”として。だから、彼女は私の顔は知らないだろう。

 私の体感からすればたった十数時間だったけれど、もしかしたら、生身の彼女からすれば、もっと長い時間だったかもしれない。ともあれ、彼女は幼いながらも、滅亡の危機に瀕した世界をなんとか救おうと、気丈に振る舞い、最後まで世界を旅した。その間に様々な出会い、多くの出来事があって、結果的に、私達はそれぞれの世界に帰ることになった。

 ……本当に、振り返るとなんとも味気ない話だ。もう少し、ドラマチックに表現してもいいような気がするが、まぁ、それが彼女との思い出のすべてだ。

 さて、このOne Shotというゲーム――そう、”ゲーム”には、現実と虚構の世界の境界を曖昧にするようなギミックが多く存在している。言ってしまえば、この「滅亡に瀕した世界」というのは、とある、既に滅亡した世界を丸々コピーしたデータの世界で、それを管理するワールドコンピュータ(だったかな?)がバグで暴走したので、それを修理しに行くという話なのだ。

 この物語には、ひとつのテーマがある。それは、「データが自意識を持ったとき、それは生命足り得るか?」というテーマだ。作中のデータ人格たちは、大部分が決められた以上のことはできない、ただの「プログラム」だ。しかし、中には自我を獲得したキャラクターもいる。彼らはデータの世界の中で、あるものは滅亡を受け入れながら、あるものは世界を救おうと足掻きながら生きている。

 データ人格が自我を獲得するためには、根気よくこれと向き合い、愛してあげることが必要だ、と、作中で語られる。それには、長い時間が必要だ、とも。

 様々な出来事があって、ニコはワールドコンピュータと向き合い、これと和解した。世界には平和が訪れ、バグは修復され、ハッピーエンド。私とニコは最後に別れの言葉を交わして――彼女は、”ゲームの枠を超えて”(本当に、ウィンドウの枠から抜け出して)自分の世界へと帰っていく。

 それ以降、ゲームを再び起動しても、二度と”彼女”にあうことはできなくなる。当然だ、彼女は自分の世界へと帰ったのだから。

 

※※※※※※

 

 さて、そろそろ話を締めるとしよう。

 私が、なぜ、こうして彼女との思い出を書き残そうと思ったのか。なぜ、ニコというゲームの中の登場人物を、「彼女」と言うのか。なぜ、「レビュー」や「感想」ではなく「思い出話」というのか。

 それは、私が、「ニコという少女がどこかで生きている」と信じているからだ。

 今でも、ふと、彼女のことを考えることがある。車を運転しているとき、家でぼーっとしているとき。彼女も、自分の世界で、元気にしているだろうか、と。彼女も同じように、夏の暑い日、時間にしてみれば10時間程度、一緒に旅した仲でしかなかったが、私を思い出す時があるだろうか、と。

 きっと、私がそうであるように、彼女も成長するにつれ、段々と記憶がおぼろげになって、いずれ、あのときの冒険を思い出すこともなくなるだろう。別にそれならそれで構わないし、私もいずれは忘れてしまうだろう。しかし、この感覚まで忘れてしまうのはなんとなくもったいないような気がして、こうしてブログを書き残すことにしたのである。

 

 なんと言えばいいか。

 要するに、とても簡単に言うと、私は、このゲームを”愛した”ということなのだろう。愛して、長い時間をかけて向き合い、ニコという一個の人格が「どこかに存在している」と信じたのだ。そう信じたことで、虚構と現実の境界が溶け合い、ニコという存在に、生命が与えられたのだ(という言い方もおかしいが)。

 

 まぁ、なんというか。

 ともかく、私は、このゲームによって啓蒙されたのだ。「所詮は創作物」と割り切ることは簡単だが、少しばかり「信じる」ことで、虚構と現実の境界を超え、「創作」に「命」を与えることができる。しかも、創作する側がではなく、創作の受け手が、だ。これは無産オタクの私にとっては、少しばかり驚きのある発想だった。

 このゲームが投げかけるテーマは、私という存在に爪痕を残したというのは、つまりそういうことだ。私は考え方を変えられた。

 

 信じることで、人はあらゆるものを簡単に生み出せる。

 ……どうも、現実と虚構の区別がつかない妄想癖のような物言いにしかならなくて締まらないが。私はそれをとても素晴らしいことだと、彼女を思い出すたびに、思うのである。

エデンとか

 いやまぁすぐにストーリー的な事はわかるんだけど、妄想してる期間が一番楽しいなーってことで。
 別にふせったーとか使えばいいんだろうけど、後でログを取り出しやすいのでブログ使っちゃうんだよね。
 
 
 
 
 
↓↓↓↓エデン↓↓↓↓
 
 
 
 
 
 希望の園エデンについて、あれやこれやと妄想する期間なので適当に。
 まず、ラスボスはエデン(FF8召喚獣)であろう。
 これまでの8人レイドは、どれもラスボスの名前をそのままとっていたので、今回もそうだと思われる。なんかのインタビューから「属性を取り戻す戦い」だということなので、相手は罪喰いか、それに類するものであろう。

 

 さて、ごく一部でだが、「アーモロートの3ボスであるメガセリオンの姿が、FF13のボスである顔がないバルトアンデルスに似ている」という話があった。実際比較してみたところ、うーん、似てる……かなぁ……? まぁ、パーツは結構似ているとは思う。
 漆黒にFF13のモチーフ(後述)が多少含まれていると感じているので、このメガセリオンの姿も(強引だが)FF13を匂わせるモチーフなのかもしれない。であるならば、エデンもまた、FF13要素を含むストーリーやボスがでてくる……かも?

■なんとなくふわっとにてるな~的な部分とか妄想とか
・人類が(ほぼ)淘汰された広大な大地を、強大な存在(FF13ではファルシFF14では大罪喰い)が支配している
・罪喰い化とシ骸化(共に眷属化と考えられる)
・アーモロート3ボスのメガセリオンの姿(顔のないバルトアンデルス?)
  →事実かどうかは未確認なのでなんともだが、FF8デバッグモードでは、エデン(召喚獣)のところにバルトアンデルスという記述があるらしい(未確認)(FFWiki情報)。
FF13にもファルシ=エデンがいる(いるといっても、13では「聖府首都エデン」という地名としてしか出てこないが)

 上記の辺りから、
 
・罪喰いになる前、繭に包まれる=都市が丸ごと繭(コクーン)に包まれ、罪喰い化した都市が舞台なのでは?(完全に妄想)
 
 みたいなね。
 
 ちなみに、エキスパIDのアカデメイア(だったか?)のボスがFF8のガーディアンフォースだったので、ちょっとFF8のGFの設定もさらってみたところ、

 

G.F.は特定の力場に存在するエネルギー生命体
・ジャンクションすることで、媒介者を通じて実体化できる
・媒介者は脳内にG.F.の居場所を作るため、一定の記憶が失われる

 

 とあった。
 これっていわゆる「テンパード化」に似てないかな?
 1つ目はともかく、召喚者を通じて現世に実体化するところはそのままだし、「脳内にG.F.が居場所を作るため、記憶が失われる」というのは、要するに「特定の存在が、脳に居座る=居座られた分だけ、思考が専有される」ということなのでは? つまり、蛮神を最優先して行動するようになるのは、分割後の人類の脳が小さいので(?)、「蛮神」という存在が脳を圧迫するほどの情報量だからなのでは?
 
 アカデメイアのボスは「想像を創造したもの」だったけど、そうなってくると前にも触れた通り、ゾディアークが本当にアシエンが造ったものだったかどうかは疑わしい。ゾディアーク(高次元エネルギー生命体)が最初にあって、それを実体化させるためにアシエンが利用されたのでは? その「きっかけ」の記憶は、ゾディアークの存在が脳を圧迫することによって失われてしまったのでは?

 

 ちなみに、エデン自体はワールドオブファイナルファンタジーとかいうFFGOみたいなゲームにも出てくるらしいけど、そのゲームだと「起きていると外の世界(?)に繋がってしまうため、普段は眠っている(バラムガーデンとして使われている)」らしい。8の演出からみても、どうやら普段は別の世界(惑星?)みたいなところにいる存在のようなので、なんかそういう感じの演出があるかもね。

 

 等など……。

 

 こういうの残してると全然違ったときに恥ずかしいんだけど、まぁ、妄想するのは自由だからさ!
 そもそも、こういう予想当たったこと一回もないけどね! というわけでチャオ!

FF14の今後とか妄想的な

 そういえば、また追記しようと思ってたことを思い出したんですが、もう前の記事がクソ長いんで改めて。
 
 
 
 
↓↓↓ネタバレ↓↓↓
 
 
 
 
 
FF14の今後
 これはもう完全に「ぼくの考えた最強のFF14のこれから」なんで与太話なんですが、今後の14の方向性としては、大型アプデ2~3後に大きなアプデは終了という方向でいくのかなと。
 今残っている部分というとアシエン・エディリプスとゼノス、ゾディアーク、あとハイデリンを作った14人委員会の離脱した1人ということになるんですが、このうち、エディリプス、というかアシエンに関しては、今後はもう本流には入ってこないかなぁという印象になってしまいました。漆黒の5.5辺りで死にそう。
 で、次は暁の面々が原初世界に帰還して帝国との戦い~ということになると思うので、これが次の大型パッチになるのかな?
 帝国との戦いが終わったら、もうやることねえじゃん! という感じなんですが、今回でアシエンすらも「英雄の救いの手」の対象となった可能性もあるんですよね。いや、過去に滅んだ文明をどうやって救済すんねん無理でしょw と普通はなるんですが、そこはあれがあるので。時間跳躍技術が。
 今回、エメトセルクが水晶公をさらったのは、水晶公の持つ技術、とりわけ時間跳躍を取得するためだと思われます。エメトセルクは、なぜこの技術に注目したのか。まぁ、アシエンの目的のためというのもあるでしょうが、アシエン種が滅ぶ原因となった「唐突に訪れた星の異変」を取り除くために時間跳躍を行った可能性もないことはないのかな、と。
 14は、思ったより丁寧にシナリオに伏線を散らしている、回収ができることは今回よくわかったので、この「唐突に訪れた異変」も、もしかしたら将来のパッチへの伏線なのかな~、みたいなね。
 アシエンたちは、自分たちがゾディアークを作ったと考えているようですが、それすら本当かどうか。ゾディアークという強力な存在のイデア設計がアシエンの叡智を集めてようやく完成するものなのであれば、ハイデリンはどうやって作られたのか疑問なんでね。
 いずれにせよ、こうしたフックが出てきた以上、そこを舞台にした冒険はありえるかな~と。幸いにして、時間跳躍理論を構築した天才ことシドは、まだエオルゼアにいるわけです。シドが今回のヒカセンの冒険を聞いたら、早速時間跳躍技術の開発に着手するんじゃないかな、とかね。
 個人的には、ここまで来るとゼノスとの決着がFF14の終わりかなと思っているので、宣言通り、ゾディアークを取り込んだゼノスとハイデリンの力を得たヒカセンの光と闇の代理戦争みたいになって” お わ り ”(デカ文字)が表示されてFin、って感じなのかな~、などと空想して楽しみました(小学生)。