「君、影薄いね」と貴方は言った

ネットの片隅に生きるだらだらしたアラサーブログ

ガチャ論・後編

 さて、ガチャ論後編である。
 前編はこちら。

ガチャ論 - 「君、影薄いね」と貴方は言った

 

 前編は実践的な方面での話になったので、後編は「精神的な面でのガチャとの接し方」に触れていきたいと思う。

 

■『人生観』を構築するガチャ
 ガチャとは、人生そのものである。

 人はガチャを回す前、その結果に夢と希望を抱く。しかし、回したあとには、極少数の成功したものと、多くの夢破れたものしか、そこにはいない。

 人生は期待したとおりにならず、いくら努力したとしても、望んだ結果を得られることは稀である。

 ガチャは、そうした人生の無常を教えてくれる。

 

 ただ漫然と流され、人生の岐路で曖昧な決断を下した人間に、それを後悔する資格があるだろうか?

 同様に、ガチャをその場の衝動で回すことを決めた人間が、結果を見てから「回さなければ良かった」と後悔する資格があるだろうか?
 

 だからこそ、ガチャを回すときには計画を立て、備えなければならない。

 そして、望んだ結果を得られなかったとしても、「そういうこともある」と、その結果を受け入れる心構えをしておかなければならない。
 
 しかし、何事にも例外はある。

 それは、””の力である。

 ””を持っているやつが”強い”。ガチャは、そうした人生においてもっとも大切なことも教えてくれる。

 

■精神修養としてのガチャ

 ガチャにつきものなのが、「ガチャを引きたいという衝動」と、「他人のガチャ結果を羨む心」である。
 

 前者について、この衝動は抗い難く、定期的に襲ってくる。まさに麻薬のようなものである。

 恐らく、イエス・キリストブッダといった聖人も、当時ガチャがあったなら、悟りを開くのが10年は遅れたであろうことは想像に難くない。

 しかし、何回も触れているとおり、このような刹那的な衝動に身を任せていては、本当に望む結果は得られない。

 この衝動を飼いならすことが、ガチャと付き合う上では必須となってくる。

 

 後者について、これもまた、ガチャと付き合う以上、避けては通れない感情である。

 しかし、当然だが、いくら羨んだところで望んだものが手に入るわけではない。

 人は皆、孤独である。

 他人は他人、自分は自分と、ドライに割り切る考え方を養っていかなければならない。

 他人を羨み、身の丈を超えて行動するものに待つのが破滅であるのは、ガチャも人生も同じである。

 

 思い返せば子供の頃、友達の持っているおもちゃやゲームを羨んで親にねだった時、こう言われたことはないだろうか?

 

「よそはよそ、うちはうち」

 

 当時は、「体よく断るためにそれっぽいことを言いやがって」と思ったものであるが、今こうして考えてみると、まさしくそれは真理である。

 親は偉大であるということも、ガチャは教えてくれる。

 

■自己満足を得るためのガチャ

 ガチャには、様々な癖がある。

 これは、より深くいえば、「ソーシャルゲーム」というゲーム自体に、いわゆる「意図しない裏技」のような挙動がある場合がある、ということである。

 

 私がこれを知ったのは、今はもうスマホゲーとしては終了してしまった「拡散性ミリオンアーサー」というゲームをプレイしているときのことだ。

 拡散性ミリオンアーサー(以降、拡散性MA)は、異様にテーブル設定がガバガバで、数々の「検証」が容易に行えるゲームであった。

 

 例えば、拡散性MAのメインコンテンツは、「強敵」と呼ばれる敵をマルチバトルで倒すことだ。

 強敵を倒すと目玉カードや、スタミナ回復アイテムなどがドロップする。自分が発見した強敵を倒すとレベルが1ずつあがっていき、段々強くなっていく仕様だった。

 拡散性MAは、その強敵が落とすアイテムのドロップテーブルが「自分の強敵レベル」で固定されているらしく、特定のレベル帯に固定したまま他人の救援に入ることで、高確率でスタミナ回復アイテムや目玉カードをドロップさせることができた

 

 また、強敵に出会うためにはとにかくマップを歩き回らなければならないのだが、普通にやっていてはスタミナを全て使っても強敵に合うことが難しかった。

 しかし、マップに入ってから約3秒で進むボタン(というか、画面をタッチすれば進んだような気がするが)を押した場合、高確率で強敵に遭遇するという仕様になっており、これを知っているのと知らないのとでは、イベントで消費する回復アイテムの数がまったく違った。

 

 更に、歩きまわっているとランダムでスタミナが回復したりする仕様だったのだが、これも強敵と同様に特定タイミングでボタンを押すと高確率で狙うことができたため、回復アイテムを使わずともスタミナを全回復させることすら容易だった。

 

 ガチャも同様で、SSRは特定の時間帯にしか出現しない、という検証結果が、有志たちにより導き出されていた。

 後に、拡散性MAと全く同じシステムを採用したTKSSIS(伏せ字)というゲームにおいて、ガチャにフィーバータイムがあることが確認されており、恐らくこうしたシステムを応用したものだと考えられる。

 

 また、某ゲームではかつて、ガチャを引く際に「正確な時計を用意しろ」という格言が存在しており、これもまた、高確率で高レアカードを引くための方策であった(これは、今では対策を取られてしまって不可能である)。

 

 このように、人間が作るものである以上、「何がしかの偏り」や「穴」というものが存在することがある。

 こうした偏りを発見し、仮説の組み立て>実地検証>成果>結論という流れを楽しむことが、ガチャは可能なのである。

 

 ただし、注意しなくてはならないのが、こうした検証結果は、どこまでいっても「オカルト」であるということである。

 ガチャの仕組みが正確に解明されていない以上、どんな説であろうと「オカルト」でしかない。

 オカルトをさも「絶対にこれが正解」と主張したり、「知らないほうがおかしい」というような言い方をするのは間違っている。そのことには十分留意したい。

 

 しかし、冷静になって振り返ってみると、本当に楽しみなのだろうか?

 まさに自己満足としか言いようがないが、そういう楽しみ方もあるという一例として挙げておく。

 

■最後に
 ガチャとは、コミュニケーションのツールに成り得る手段である。

 しかし、その本質は「孤独」である。

 ガチャを回す決断をしたのは己自身であり、その結果と向き合うのもまた、常に己独りである。
 
 もちろん、これはガチャという娯楽に接する上での心構えのひとつだ。

 それぞれに、ガチャに対する独自のスタンスがあるだろう。

 それを構築する際に、この文章が賢明なる諸氏の一助となれば幸いである。

ガチャ論・前編

■序文
 近年では、いわゆる「ソーシャルゲーム」と呼ばれる分野のゲームも一定の立場を得てきた。かつては蛇蝎のごとく嫌われてきた「ガチャ」という集金システムにも、さほど抵抗感を示さない人間が増えてきたように見受けられる。

 

 ガチャに娯楽性があるのは確かである。しかし、その娯楽性は、ただ単純に享受してよいものではないと私は考える。

 

 私はここで、「ガチャ」という娯楽のいろいろな側面に着目しつつ、各自が「どういう立場でガチャに接するべきか?」を考える手助けになるものを提示したいと考え、筆をとる次第である。

 

■コミュニケーションとしてのガチャ

 ソーシャルゲームの隆盛はめざましく、現代のオタクシーンにおいては、人気のソーシャルゲームは、欠かせない話題のひとつになっている。かつてのドラマや歌謡曲が担っていた「共通の話題」という役割を、現代ではソーシャルゲームが担っているのであろう。

 

 その中で、おそらく最も普遍的に、万人が盛り上がれる話題が「ガチャ」である。なぜなら、シナリオやシステムに関しての感じ方は人それぞれだが、ガチャは「金銭を投入して、結果が返ってくる」という単純な仕組みであり、そこに各自の感想が入り込む余地が少ないからである。「飲み会の席で、同時にガチャを回す」などのコミュニケーションも、近年では散見されることが多くなってきた。

 

 こうしたコミュニケーションは一概に否定できるものではない。「ガチャ」という娯楽がエンターテイメント性を内包していることは事実であり、場の盛り上げに一役買うことがあることも、また事実である。

 

 振り返って考えてみれば、「酒の席を盛り上げる行為」というのは、いつの時代も必要とされてきた。それは、例えば「かくし芸」であったり、「一気飲みコール」といったものである。しかし、そう考えた時、「ガチャ」という盛り上がりの手段は、コストパフォーマンスが極端に悪いということには、十分注意しなくてはならない。

 

 また、「かくし芸」や「一気飲みコール」という文化は、現代では多くの人間が「悪い文化」だと考えていることにも、留意が必要である。

 例えば、「アルコール・ハラスメント」という言葉がある。これは、飲酒の強要などを含む迷惑行為の総称だ。たとえ場を盛り上げるためであったとしても、本人の意思にそぐわない行為の強制は、ハラスメント(いやがらせ・いじめ)なのである。

 

 当然ながら、これは飲み会の席でのガチャにも当てはまる。気が進まない相手に対し、ガチャを回させることを半ば強要するのは「ガチャハラスメント」であり、迷惑行為だという認識は、広く持たれなければならない。

 

 同時に、気が進まない側も、その場の雰囲気に流されず、きちんと断る勇気をもたなければならない。なぜなら、「ガチャを回す」と決断した以上は、それは自己責任になるからである。心の何処かで「回してもいいか」と考えているならばともかく、本当に気が進まないのであれば、きちんと断るべきである。

 

 そのコミュニティの中で、「ガチャを回すことを断っても構わない」というコンセンサスをとっていくことが、良好な関係を構築していく上で重要になってくるだろう。

 

■「計画性を養う練習」としてのガチャ
 ガチャは、一般的には「射幸性を煽るもの」と認知されている。確かに、ガチャは「出るか、出ないか」の2つしか結論がなく、少額で目的のものを手に入れる者もいれば、大金を投じても手に入れられない者もいる。少額で目的のものを手に入れられた者は、その快感が忘れられず、ふとした瞬間に「ガチャを回したい」という衝動に襲われることになる。

 

 しかし、ガチャが単純に「射幸性を煽るもの」だったのは、過去の話である。現代のガチャは、「計画性を養うもの」へと変化した。
 これを変化させたのは、「詫び石」と「天井」の概念である。
 
「詫び石」とは、定期的に配布されるゲーム内通貨のことである。
 現代のソーシャルゲームでは、何らかのクエストを初回にクリアした際や、緊急メンテナンスが行われた際、あるいは、リリース○周年などの記念日に、ゲーム内で金銭の代わりに使用できるゲーム内通貨を配布するのが一般的である。ここでは、それらを総称して「詫び石」と呼ぶ。
 
「天井」とは、「その設定された回数ぶん、ガチャ回せば、必ず目的の物が手に入る」と定められた回数のことを呼ぶ。

 今もっとも「天井」という言葉が使われているであろうグランブルーファンタジーにおいては、天井は300回、9万円分に設定されている。
 9万円はかなりの大金である。いくら目的のものを手に入れるためとはいえ、庶民が簡単に払える額ではない。

 

 では、どうするか?
 それは、「ゲームに対する投資計画」を立てるのである。

 

 一ヶ月間でもらえる詫び石の大体の数を計算し、目玉となるカードのリリース時期を予測し、その間までに詫び石がどれくらい貯まるかを計算する。詫び石の数が天井まで届かない場合、その差額をどう捻出するか? を考え、現実の予定を計画していく。それが、ソーシャルゲームで出費を抑えるためのテクニックだ。

 

 では、詫び石が少なく、天井が設定されていないゲームをプレイしている場合はどうするか? それは、「そんなゲームは今すぐやめる」が正解であろう。

 

 ここで問題になってくるのは、先に触れたような「衝動」である。
「ガチャを引きたい」という欲求は、厄介なことに非常に強いものである。しかし、それに抗えないほどではないというのが、個人的な感想だ。

 ガチャ欲とは、瞬間的な欲求である。そのため、それを押さえ込む手段を用意しておく(例えば、「軽く運動をする」「寝る」など)ことが、ガチャ欲に抵抗するためには必要になってくる。また、事前に計画を立てておくも、衝動的なガチャ欲を押さえ込むのに有効である。

 

 重ねていうが、ガチャはコストパフォーマンスの悪い娯楽である。
 そのため、無秩序なガチャは生活に打撃を与え、QoLを著しく下げる危険性を孕んでいる。

 そのことをしっかり受け止め、無秩序なガチャではなく、計画的な投資を行うことが、ソシャゲをプレイする上では求められる。
 

後編に続く

ガチャ論・後編 - 「君、影薄いね」と貴方は言った

【好き瞬感想】ただ一度だけ、再び力を振り絞って、『美しきもの』を紡ぎたいだけなんだ

 大人気ブログ『蕎麦屋』に、「好きになるその瞬間を。」の感想エントリが投稿されました。

tororosoba.hatenablog.com

 

 正直に言うと、このエントリに書かれていることの大半に同意できてしまい、私として、これ以上言うことはないような状態です。

 それでも、「前回のような勢いだけではなく、感情を整理し、自分の言葉で感想を言いたい」という漠然とした想いが消えなかったので、改めて、このエントリで感想……というよりは、「何を感じ、何を想ったのか」を言葉にしておきたいと思います。

 

■前作「ずっと前から好きでした。」

 前作、「ずっと前から好きでした。」は、お世辞にも「面白い映画」ではありませんでした。しかし今考えれば、前作の作りは、私のような「本来のターゲットではない層」を、この夏の青空のように澄んだ世界へ連れ出すための入り口としては、正解だったのかもしれません。

 少なくとも、前作で衝撃を受け、破壊された価値観のおかげで、より深く「好きになるその瞬間を。」を楽しめているのは確かだからです。

 

「この映画を見にいく時は、『好きな人に会いに行く気持ち』になって行こう」

「この映画に、『恋』をしよう」

 

 そういう気持ちを持って視聴に臨めたのは、間違いなく前作のおかげです。そういう意味では、「ずっと前から好きでした。」を見てからのほうが、「好きになるその瞬間を。」を、より楽しめるかもしれません。

 

■今作「好きになるその瞬間を。」

 今作、「好きになるその瞬間を。」は、前作に比べれば、ずっと面白い映画です。それは恐らく、前作が青春群像劇だったのに対して、今作はあくまで「瀬戸口雛」をメインに据え、その恋心を描いた作品だからでしょう。

 瀬戸口雛は、時に笑い、時に悩み、時に涙を流し、60分の中でさまざまな表情を見せてくれます。そんな瀬戸口雛というキャラクターは、純粋に可愛らしく、大体の視聴者は、彼女に好意を抱くことでしょう。そして、彼女の恋に悩む姿を、我々は心から応援したくなり、その恋の経緯・結末から、我々は「輝き」を受け取るのです。

 

■受け取った「輝き」と、「貴いもの」に突き動かされて

 何をこの映画から受け取るかは、人によってさまざまだと思います。例えば、憧憬を受け取る人もいるでしょう。過去の出来事に想いを馳せ、少しの寂しさを受け取る人もいるでしょう。ですが、人によって受け取るものは違っても、その胸に宿るものは等しく同じ価値を持つと、私は信じて疑いません。

 すなわち、人はこの映画から「輝き」を受け取るのです。そして、その輝きは、胸のうちに埋もれていた「何か」を掘り起こし、それを再び輝かせるのです。その「何か」がどのようなものであれ、みな等しく「貴いもの」であろうということを、私は強く信じているのです。

 今、この映画を見た「本来のターゲットでない層」は、激しく動揺し、しかし、「この映画の良さ」を、それぞれの言葉・行動で表そうとしています。あるいは、曲を聞き込み、「瀬戸口雛」を始めとする登場人物たちの心境をなぞろうとしています。

 どういう行動を起こすかは人によってさまざまですが、その原理となっているのは、この映画から受け取った「輝き」と、再び輝いた胸の内の「貴いもの」であろうと、私は思うのです。

 

■爽やかな物語の見送りに苦しみは似合わない

 さて、私自身はどうだったかというと、この映画を見た直後は、「ふーん」というのが率直な感想でした。キャラクターは可愛かったけれど、話も前作と比べて面白かったけれど、ただ、そんなに深い話でもないな、と。

 けれど、映画を見終わって十分経ち、一時間経ち、一晩経つごとに、この映画に対して言いたいことが、考えたいことが溢れ、止まらなくなってしまったのです。

 それは、決して「楽しい」だけのものではありませんした。時に苦しく、時にもがくような、鬱屈とした考えが頭を支配した時もありました。しかし、OPである「センパイ。」とEDである「大嫌いだったはずだった。」を繰り返し聞くに連れて、次第にこう思うようになっていきました。

 すなわち、

 

「爽やかな青春の物語に、その終わりを見届けるのに、涙や苦しみは似合わない」

 

 きっと瀬戸口雛を筆頭にする登場人物たちにとっては、この物語は青春の一ページ。後から、その苦しさや悲しさを振り返った時、きっと「いい思い出」になる物語だったと、そう思うから。私もこの物語を、そういう風に見守ろう。

 そんな風に思えるようになりました。

 

■終わりに

「好きになるその瞬間を。」は、冷静に見れば、取るに足らない、キャラクターが可愛いだけの映画かもしれません。しかし、「恋をする」つもりでこの映画を見に行けば、きっと素敵な貴いものを――それは時に、自らの心を傷つけるような感情であったとしても――受け取ることができるはずです。

 2016年ももう終わりですが、ぜひ、スクリーンでこの映画を見て欲しい。そう思う映画でした。

 

 以上。

好きになるその瞬間を。を見て、俺は瀬戸口雛に恋をした

 2016年12月24日、好きになる瞬間を。~告白実行委員会~を見てきたわけですよ。

 

 前作を見た後、「12/24に好きになるその瞬間を。とかヲタクとして限界でしょ……」とネタで言っていたんですが、まさか本当に12/24に見ることになるとは、まさか自分自身、思っていませんでしたね。

  まぁ、それは良いんですが(時間帯が悪くて、前作みたいに「JKでいっぱい!」みたいな事はなかったし)、なんというかね、色々思うところがあったので、これはその感想というか、想いのたけを綴ったエントリなんですが、当然ながらネタバレしまくるのでネタバレ見たくない! って人は回れ右。 

 あと、内容はまったくないので、そういうのを求めて読むと肩透かしだと想います。

 

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以下、ネタバレ


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 というわけでね、好きになるその瞬間を。を見てきたわけなんですけれども。

 

 まず、まだ「見てない人」に言いたいんですが、この映画は決して「期待」を持って見ないで欲しい。もちろん、「クサしてやろう」とか、そういう気持ちを持って見るのも論外です。

 この映画、とにかく「”好き”を知りたい」、そういうピュアな想いを胸に抱いて見て欲しい。この映画にをしたと思って見て欲しい。

 とにかく好きになるその瞬間を。が見たい。見れるだけで嬉しい。そういう気持ちを持って映画館に足を運んでもらいたい。

 

 この映画は、期待に応える面白さも、クサせる程の内容も、持ち合わせてないです。

 でも、好き」だけはたくさん見て、感じることができる。それだけは保証します。

 本当、60分の中で、5分に1回くらいの割合で、キラキラボーイズやキラキラガールズが『好き』を意識したり、『好き』を表現したりする。

 

 おいおい、勘弁してくれ、と。

 おじさんはそのキラキラを受け止めるHP、ありませんよと。

 俺がJKでなければ死んでいたところでしたね。危なかったです。

 

 さて、感想です。

 なんというかね、前作が『体験型アトラクション』だったわけですけども、今作の感想を一言で言うなら『哲学』ですよ。

 『哲学』、わかります? 

 俺も自分で何を言ってるのかわからないですよ

 

 前作、「ずっと前から好きでした。」は、正直ね、テンプレイケメンと人の心を持たない畜生がメインを張っていたので、内容的には何も理解できなかったわけですよ。

 

 でも、JKが泣いてる。衝撃! 

 この衝撃はぜひ一度味わうべき!! 

 

 ……みたいな、そういう感想を持ちましたし、実際今もそれは変わりません。

 

 そこをいくと、今作はね、まぁ正直、すげー唐突に終わるし、見終わったあとは「こんなもんかー」って感じだったんですけどね、じわじわくるんです。見終わったあと、言いたいことが溢れてくる。

 好き瞬、俺の観測範囲だと、見終わった後にやたらと考察してる人が多くて、どんな映画なんだと思ってたんですがね、見た今なら言えますよ。わかる

 

 この映画、とにかく、登場人物の気持ちを考えてしまう映画です。

 その中でも、特に考えてしまうのが、ヒロインの「瀬戸口雛」ちゃんのことなんですね。

 

 この映画は60分しかないので、尺があまりにも足りず、作中では尻軽小悪魔みたいな感じになってしまっている雛ちゃんですが、でも、作中の時間にしたら2年とちょっとなわけですよ。

 2年とちょっと好きだった相手だからこそ、髪型を急に変えた時にすぐに「好きな相手ができたんだ」と気付いてしまったし、それでも諦めきらめ切れずに好きでい続けて、ラブレターを書いて、思わず告白までして、でも恋に破れてしまったんですよ。

 

 前半の雛ちゃんの気持ちはね、まぁわかるんですよ。なんか少女漫画的っていうか、テンプレみたいな感じだし、要するに「恋に恋する」女の子だし。

 

 でも、中盤以降の雛ちゃんは違うわけですよ。

 だって、好きで好きで、好きだからこそ、「自分が意中にいない」ということに気付いてしまっているんだもの。それでもラブレターを書いて、勇気を出して気持ちを伝えようという時に、失恋したユッキーが現れるんですもの。思わず「好き」といってしまって、でもやんわりと拒絶されてしまうんだもの。

 

 俺はね、知りたいんですよ。

「好きな人に、自分以外の好きな相手がいる」とわかった時、雛ちゃんはどんな気持ちだったのか? それからの毎日、雛ちゃんはどんな風にユッキーと接して、どんな風に過ごしたのか。気持ちを伝えようと決めた時、そこにどれだけの決意があったのか。

 そして、想いを伝えた瞬間――それが拒絶されるとわかっていながら、つい口をついて出てしまったその言葉に、自分でどういう想いを抱いたのか。

 

 見終わってから2時間くらい経つわけですけども、ずっと雛ちゃんの事を考えてる。

 雛ちゃんの事を知りたくてたまらない。

 この想いは、まるで恋でもしてるみたいじゃないですか?

 

 ……とまぁ、そこでこのエントリのタイトルにつながってくるわけですが、まぁ、正直、インパクト重視で言葉を選んだわけですが、でも、俺がこの数時間、雛ちゃんの事ばかりを考えているというのは”事実”だし、このよくわからない感情が「好き」といわれたなら、それはそうなのだろうと思うわけです。

 

 しかし、恐ろしいのは今のJC、JKですね。

 こういう素直な気持ちをストレートに表現する作品を摂取して育つわけでしょう?

 本当、ヲタクはシン・ゴジラとか言ってる場合じゃないですよ。いや、シン・ゴジラは面白かったけども、このね、素直さ、ピュアな気持ちがね、最先端なんですよ

 これを理解できないというのはともかく、理解しないというなら、本当、時代に置いていかれますよ。

 

 言いたいことは他にもあるんですが、長くなるので割愛します。

 例えば、「実質たまこラブストーリーじゃん!!」とか、「虎太郎、何回雛ちゃんでオナニーしたんやろなぁ……」とか、「虎太郎は床オナ派」とか、まぁ主に虎太郎の青春のパトスの話がメインになってくるわけですが、それはね、別の場所、別の機会にぽろっと出していこうかと想います。

 

 好きになるその瞬間を。~告白実行委員会~、オススメの映画です。

 

 以上。

Nintendo Switch発表と株価の下落について、その仕組みを考える

まとめ

・「Nintendo Switchの失望が任天堂の株価下落に繋がった」というのは、正しい理解なのか? →そうではないと思う。

・アナリストの言うことは全部後付けだから鵜呑みにするべきではない。

・相場はエンターテイメントだから、楽しめるようになってみよう!

 

■はじめに

 ときに株価は、一般的な視点から見た場合、「何故?」と思うような動きをすることがあります。

 

 ここでは、直近で起こった任天堂の新ハード発表とそれに伴う株価変動」を例にとり、「株価が不可思議な動きをするのはなぜなのか?」という疑問に対する答えを、私なりの視点で回答したいと思います。

 

※注意点

・相場観は個々人で大きく違います。今回ご紹介するのは、あくまで私の相場観です。

・昨今では、相場全体の流れは常に変化しており、今回ご紹介する視点が明日も通用するかどうかはわかりません。

 

■多くの人が疑問に思った「株価の下落」

 ゲームに疎い方でも、「任天堂の新ハードが発表された」というニュースは、ご存じの方が多いと思います。

 Nintendo Switchの発表翌日、任天堂の株価は大きく下落したことは、様々なメディアで取り上げられ、インターネットの三流タブロイドでも大きく取り上げられました。

 

 これに対して、私のTLでは「何故、株価が下がったんだろう? 魅力的なハードに見えたのに」という声や、「投資家はゲームをしていないんだな」という声が散見されました。

 

 私から言わせると、任天堂の株価は下がるべくして下がったわけですが、確かに一般的な見方をすれば、「ポジティブな内容だったにも関わらず、何故、ネガティブな反応が起こったんだろう?」と疑問を覚えるのももっともです。

 

 では、なぜ、任天堂の株価は大きく下がってしまったのでしょうか。

 

■アナリストのいう「株価変動の分析」は、全て後付け

 株価の下がった理由について、少し検索するだけでも、様々なサイトが分析を掲載していることがわかります。

 

【深層】ニンテンドースイッチ発表で任天堂の株価が下落した理由
http://www.toushin-1.jp/articles/-/2200

 

 例えば、上記のサイトでは、「真新しさがなかったこと」がその最大の要因であると分析しています。確かに、Nintendo Switchのコンセプトに真新しさがあるかといわれれば、特にないと私も感じています。

 しかし、だからといって、株価が大きく下落するほど悲観的な内容だったかといわれると、そういうわけでもないと思います。

 実際のところ、こうした「株価変動の理由」に関して、正確に把握できるアナリストは皆無と言っていいでしょう。こうした分析は、あくまで「起こった事象に対して、どういった意味付けを行えるか?」という、言ってしまえば付けでしかありません。

 

 もし、今回の発表で株価が大きく上昇したとすれば、こうした分析は全て、「新ハードのコンセプトが真新しかった」「PVのつくりが、任天堂が力を入れてこなかった、所謂「ゲーマー層」に訴えかけるつくりであり、期待感が高まった」などと書かれていたことでしょう。

 

■短期的な投資に理由は不要。必要なのは「小さなきっかけ」と「タイミング」!

 実際のところ、投資というものはタイミングに重きがおかれており、発表内容のポジティブさ、ネガティブさは、短期的な部分では特に関係ありません。

 

 今回、任天堂の株価に大きく寄与したと私が考えているのは、投資の世界に古くからある「噂で買って事実で売る」という格言です。

 

 投資の世界では、事前にリークされた決算内容がかなり良好で、事実、その通りの内容が発表されたにも関わらず、直前まで上がり続けていた株価が、表と同時に大きく下落することがあります。

 今回の事例は、まさにその典型的な例だと言えるでしょう。

 

 職業投資家は、常に「決済ができるタイミング」を狙っています。今回のような「大型発表の直後」は、「決済するタイミングとしてちょうど良かった」というのも、今回のような事例に繋がる要因のひとつと考えられるでしょう。

 

■市場を動かすのは、個人ではなく一部の大手

 現在の投資の世界では、市場の動きを決定するのは、個人ではなく一部の大手、所謂ヘッジファンドの方針次第です。例え、個人が「今回の内容は良かった」と感じても、大手が最初から「噂で買って事実で売る」方針を固めていたなら、「事実」の発表直後に、短期的な株価は下落してしまいます。

 

 つまり、短期的な株価は、あくまで「大手投資機関の意思によって変動するもの」であり、企業の価値や、発表された内容の善し悪しを判断できるものではないということです。

 それらを判断したいのであれば、短期的な株価変動よりも長期的な(少なくとも、1~2ヶ月以上の範囲での)株価変動に注目するべきでしょう。

 そういう意味では、今年半ばには13,000円台だった任天堂の株価は、現在ではその倍近くに上昇しており、企業価値の評価は大きく上がっていると言えます。

 

 もっとも、この株価の上昇については「ポケモンGO」による部分が大きいわけですが、Nintendo Switchが市場に評価されているのであれば、今後、任天堂の株価は緩やかに上昇していくでしょう(少なくとも、Nintendo Switchの発売までは)。

 

■おまけ:三流タブロイドのネガティブ記事は、株価操作が可能なのか?

 あくまで個人的な意見ですが、ネットの三流タブロイドに株価を変動させるような力はないと考えています。

 その理由は、三流タブロイドの客層に投資家が少ないと考えられること、例え投資家がいたとして、三流タブロイドの情報に左右されるような投資家が、株価に影響を与えるほどの株保有数を持っているとは考えづらいこと等です。

 

 但し、ヘッジファンドの使う取引手法のひとつにアルゴリズムと呼ばれるものがあります。これは、特定のキーワードを設定し、Twitter等でそれらの単語を検索。一定数のヒットがあった場合に売買を行う、というものです(多分)。

 

 三流タブロイドの記事をTLに流すことで、その記事タイトルにアルゴが反応してしまうことがないとは言えません。

 

天皇アルゴ?天皇陛下「生前退位」に反応するアルゴリズム日経平均先物で作動か

http://kabumatome.doorblog.jp/archives/65867770.html

 

 直近で起こった、面白いアルゴリズムの誤反応(と噂されているもの)はこれでしょうか。

 

 但し、こうした誤反応が起こる可能性は、三流タブロイド記事の拡散を考えれば少ないのではないかというのが、個人的な感想です。これを元にしてタブロイド記事を流すのが云々というのは、無理があると感じます。

 

 それをいってしまえば、例えば「何故、任天堂の株価が下がるんだろう?」という疑問でさえ、任天堂」「株価」「下がる」というキーワードに引っかかる=追い打ちの売りを誘発する可能性があり、迂闊な発言は何も出来ないことになってしまうからです。

 

■最後に

「何故、今回、任天堂の株価が下落したのか」について、簡単に、かつ個人的な観点からではありますが、その仕組みをご紹介しました。

 

 相場とは、過去を知ることで未来を予想する、一種の学問であると同時に、予想の範疇を飛び越えて動く良質なエンターテイメントでもあります。

 相場の動き方のパターンを知り、起きた事象に照らし合わせて今後が予想できるようになれば、市場を見るのが楽しくなるはずです。

 

 相場というエンターテイメント、ぜひ、みなさんも体験してみてください。

クソアニメ論

■序文
 昨今では、数え切れないほど多くのアニメが、3ヶ月毎に放送されている。そうした数多のアニメを評価する言葉のひとつに、「クソアニメ」というものがある。

 この言葉は、非常に多くの意味を内包する言葉であるにも関わらず、その字面から「単純に面白くないアニメ」を意味する言葉として使われることも多い。

 一クソアニメ好きとして、このような誤用を見るたびに、非常に強い憤りを覚える。そこで私は、世に正しい「クソアニメ」の意味を啓蒙するため、ここに筆を執る次第である。

 しかし、「クソアニメ」の意味するところは非常に繊細であり、その意味を完璧に定義することは、個人ではとうてい不可能である。そのため、ここでは、クソアニメ視聴に必要な心構えや、「あくまでも私はこう考える」というクソアニメの判断ポイントを何点か挙げると同時に、時にクソアニメと判別し難い場合がある「名作」の条件についても触れていきたいと思う。

 

■「クソアニメ視聴」に求められる心構え
 クソアニメを視聴する際、我々にはひとつの心構えが求められる。それは、「放送中、いつでも掌を返すことができる心構え」である。

 クソアニメは、決してクソアニメとして生まれてくるわけではない。しかしながら、監督のやりたいこと、見せたいことに視聴者がついていけないとき、人はそれを「クソアニメ」と評価する場合がある。

 こうしたアニメは何らかのパワーを持っていることが多く、やがて視聴者の多くを魅了する名作となるか、もしくは、独りよがりさを視聴者に見抜かれ、駄作の烙印を押されることになる。

 このようなアニメを、いつまでも「クソアニメ」と評価し続けるのは、クソアニメ視聴者として非常にナンセンスである。その作品のブレイクポイントを敏感に察知し、時が来ればきちんとした評価を下せる「センスあるクソアニメ視聴者」になるためにも、いつでも掌を返す準備をして視聴に望みたい。

 時に、周囲が「クソアニメだ」と評価し続けたとしても、自分が「名作」、あるいは「駄作」と判断したのであれば、強い心を持ってそれを口に出していくことも、クソアニメ視聴者の義務である。

 安易に「クソアニメ」と評価したい気持ちをねじ伏せ、、己の内面と向き合い、真なる自分の心を見出すことになるクソアニメ視聴は、克己の修行であるといえる

 

■クソアニメの判断ポイント
 クソアニメの判断ポイントは、人によって大きく異なってくる。ここでは、あくまで「クソアニメに含まれる率が高かった要素」と、個人的な判断ポイントを列挙していく。
 時折、具体的な事例としてアニメの名前を挙げることがあるが、そのアニメがクソアニメだというわけではないことに注意していただきたい。

 

・キービジュアルが既に力尽きている
 本来、ユーザーの目を引くために、もっとも力を入れなければならないキービジュアルが既に「落書きか?」というような、一見して予算のなさを伺わせるようなアニメは、クソアニメ率が高い。公式ホームページのキャラクター紹介が力尽きている場合も同様である。

例:
戦姫絶唱シンフォギア(1期) http://www.symphogear.com/
聖剣使いの禁呪詠唱<ワールドブレイク> http://warubure-anime.com/

 

・印象的なセンテンスがある
 印象的なセンテンスを持つアニメは、クソアニメである確率が高い。

例:
「一人旅団」(革命機ヴァルヴレイヴ
「思い……出した!」(聖剣使いの禁呪詠唱<ワールドブレイク>)
「待たれよ」(アルドノア・ゼロ
「……んだよ、意味がわかんねえ」(魔法戦争

 

・特定の声優が出演している
 特定の声優が出演しているアニメは、クソアニメである確率が高い。
 かつては「木戸衣吹が出演するアニメはクソアニメ」という定説が存在したが、「すべてがFになる」がそこそこ普通な出来だった上に、「アヴァベルオンラインアニメ化中止事件」によって、「木戸衣吹が出演するクソアニメは放送されるが、M・A・Oの出演するクソアニメは放送もされない」と一部で(主に俺)話題になり、勢力図が塗り替えられつつある。
スマホ向けRPG「アヴァベルオンライン」のテレビアニメ化が中止に 運営元は「諸般の事情」と説明 https://gunosy.com/articles/RIA69

 しかし、一部の有識者の間では、「木戸衣吹M・A・Oの演技を受け止めきれないアニメ側に問題があるのではないか?」と疑問が呈されている。

 

・OP、またはEDが名曲である
 OP、またはEDが名曲であるアニメは、クソアニメである率が高い。

例:
魔法戦争OP:https://www.youtube.com/watch?v=pb6HN_NFD20
魔法戦争ED:https://www.youtube.com/watch?v=fe8i1aXZ2SI
ビビッドレッドオペレーションOP:https://www.youtube.com/watch?v=BSRRsXuttgQ

 

※注意点
 確かに、クソアニメの条件としてOPが名曲であるアニメはクソアニメ率が高い。
 しかしながら、決してOPに起用してはいけない歌手が存在することが、個人的な調査から明らかになっている。その歌手とは、AKINO with bless4である。
 AKINO with bless4の曲は、確かに名曲揃いである。しかし、AKINO with bless4をOPに起用した場合、そこから放たれる圧倒的な”圧”は現代アニメが受け止めきれるものではなく、数多くのアニメがAKINO with bless4の前に敗北してきた
 しかし、逆に言えば、”本編殺し”とも呼べるAKINO with bless4には、それだけの「名作オーラ」備わっているということである。いつの日か、アニメ制作現場が次のステージに進み、AKINO with bless4にアニメの内容が追いついたとき、その相乗効果は計り知れないものになるかもしれない。

 

・革新的・先進的な手法を用いて作られている
 クソアニメを分析すると、革新的・先進的な手法を用いて作られていることが多々あることがわかる。

戦姫絶唱シンフォギア
 カット割りや台詞回しによって展開を圧縮し、「4話1クール=12話で3クール」とすることに成功しており(12話を「結」と考えれば4クール)、筆者はこれを「シンフォギア三倍段」と呼んでいる。
 GやGXとシリーズを重ねるごとにこの手法は薄れつつあるが、「必要な部分を描写するために、少しでも余計な部分は絶対に省く」というマイナスの手法は、「君の名は。」や「シン・ゴジラ」でも採用されている。

 

メカクシティアクターズ
 筆者が立てた「ささみさん@がんばらない」でイラストレーター左氏の絵をそのまま動かした功績により、今後10年、どんなことがあってもシャフトをdisらない」と誓いの8年分を消費させたと(俺の中で)話題の「メカクシティアクターズ」が採用している、「アニメをミュージックビデオと捉え、カゲプロのファン層が買いやすい価格帯に設定した円盤を毎月発売する」という手法は、なかなか他に類を見ない商売の手法である。

 クソアニメの中には、こうした「尖りすぎた手法」を採用したがゆえに、一般的な視聴者がついていけずに「クソアニメ」に分類されてしまっているものもある。クリエイターは、こうしたクソアニメの中から手法を学び、一般に受け入れられるように手を加えることで、ヒット作を生み出せる可能性がある。
 つまり、クソアニメはアニメ界のパリコレクションといえるだろう。

 

・犬がしゃべる
 犬がしゃべるアニメはクソアニメである。

 

■名作の判断ポイント
 ここからは、「時に、クソアニメと判別をつけづらい名作アニメの判断ポイント」を紹介していく。

 

・OPかEDで走っている
 OPかEDでキャラクターが走っているアニメは名作である

 

・突然ミュージカルがはじまる
 なんの脈絡もなくミュージカルが始まるアニメは、当然だが名作である

 

・野球回、またはサッカー回がある
 いうまでもないことだが、野球回、またはサッカー回があるアニメは名作である
 その回が最終回に近ければ近いほど、名作の度合いは高まる

 

・女子が女子を平手打ちする
 もはや万人の共通認識であるため、言う必要があるのか疑問だが、女子が女子を平手打ちするアニメは名作中の名作である

 

■「クソアニメ」に似て非なるアニメ
 クソアニメと似て非なるアニメが存在することは、余り知られていない。
 このアニメは「まなめはうす枠」と呼ばれており、先日、惜しまれながらもその長い歴史に幕を閉じた(※1)「まなめはうす」管理人が好んで視聴するタイプのアニメである。
 このアニメは多くの場合、

・エロゲ原作である
・ギャグ寄りである
・ナンジョルノが出演している
・学園モノである

 などの要素を含んでいる。
 これらのアニメは「まなめはうす枠」であり、クソアニメ好きに話題を振っても微妙な顔をされてしまうため、注意したい。

 

■最後に
「クソアニメ」は、個々人によって大きく判断ポイントが異なることは、先に述べたとおりである。だが、「クソアニメ」に共通するのは、「どこか、強く人を惹き付ける魅力がある」ということである。
 ただの駄作を「クソアニメ」とはまったく異なるものである、安易にそうした呼称を用いることは、アニメに対する侮辱である。クソアニメに理解を示すことが難しい一般的な感性の持ち主であっても、そのことだけは十分に注意して欲しい。

 また、クソアニメに感じている魅力は人それぞれであるため、共通言語として語ることはほぼ不可能である。同じクソアニメが好きだからといって、話が盛り上がるわけではないということにも、十分留意すべきであろう。


※1 まだやっていると本人から抗議がきたので、まなめはうすもみんなよろしくね http://maname.hatenablog.com/

シン・ゴジラのシンはシンフォギアのシンだった

 シン・ゴジラを見てきました。

 シン・ゴジラを見てきて、事前の評判から「あ~こんな話なんだろうな~、じゃあ見てきたらこんな感じの感想言っちゃおうかな~」と考えてたものがあったんですが、実際見終わった後に思っていたことは、「シン・ゴジラ、シンフォギアだった」でした……。いや、最後のあれのあれだけでなくて。以下、その理由をお話します。

 ちなみに、書き終えてから見返したところ、話がずれまくっている上に、(個人の感想です)以上のものでなかったり、「いや、つまりこういっているのはこういうことだよ、頭わりぃな」というような感じの部分が多くなりましたが、あくまで私のブログで私が書いた記事なので、そこら辺はご容赦ください。

 

 

 

 

 

 

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 私が言うところの、「シン・ゴジラとシンフォギアの類似点」、それは、どちらも「マイナスの手法で作られている」という部分です(個人の感想です)。

 この2つの作品は、どちらも「見せたいテーマ、物語」が最初にあり、それを必要な尺の中に収めるために、極限まで「不必要な部分」をそぎ落として作ってあると感じました。

 この手法を用いたアニメとしては、シンフォギア1期が特に優れていて、私はこれを新世代のシナリオスタンダードと呼んでいるんですが、ようやくそこに庵野監督が追いついたか。という感じですね。

 シンフォギアを知っていれば、事前によく見かけたような、「キャッチーな主題歌とか恋愛要素とかなくても売れるものは作れるんだよ!」という結論にはなりようがないので、全ヲタクは早急にシンフォギア(特に1期)を見るべきだと思います。一般的には安っぽい作画や、一見しただけでは笑いを誘っているとしか思えないストーリー展開で話題になることの多いシンフォギア1期ですが、作中で使用されている「マイナスの手法」はかなりの高レベルですので、技術的な面に注目してシンフォギアを見てみましょう。

 まさか、シン・ゴジラを見て、こんなウエメセでわけのわからないことを言うことになるとは、私も思っていませんでした。

 そんな感じで、「これ実質シンフォギアでは?」と思ってみていたら、急に「アメノハバキリ」とか言い出したので、ヤシオリ作戦時の、急激に巻きが入ったような怒涛の展開も含めて、もう完全にSAKIMORIが戦っていました。俺の中で(幻覚)。

 まぁ、結論を言うと、私自身そうなんですが、コンテンツが溢れる現代を生きる我々は、皆「我慢弱い」部分があるんですよね。主軸とずれた要素が入っていると、退屈と感じやすい。その点、シン・ゴジラもシンフォギア1期も、徹頭徹尾「見せたい物語」を、最低限の肉付けでブレることなく表現していたので、その点がウケているのかもしれないなぁ……というのが、シン・ゴジラの感想です。

 シン・ゴジラ自体の内容としては、本当に中身がなかったですね。ゴジラは作中でただ歩いていただけだし、攻撃されたからビームで反撃したくらい。上陸した理由というのは特に何もなかったし、ゴジラがきて、それに対応して、何とか上手くいったね、おわり。みたいな内容でした。

 ただ、シン・ゴジラの話としてはそれでいいと思っていて、例えばゴジラが上陸してうろうろしていた明確な理由なんていうのは、なくてもいいんです。何故なら、この映画は怪獣映画ではなくて、実際のところ、「天災に対してがんばる日本人を描いた映画」だからです。

 シン・ゴジラの序盤の展開を見ればわかるように、ゴジラは形態ごとに、地震津波原発事故といった、日本を襲った天災・人災を踏襲し、第4形態として、「それらを上回る、未曾有の天災」として描かれています。天災が発生するのに、特に理由はありませんよね。そんなわけで、メインは必然的に、「天災に対応する日本人」になり、最後、ゴジラを何とか倒す場面は、「一致団結した努力で、未曾有の天災をも何とか乗り越えられる。だから、あきらめずに頑張ろう」というメッセージを感じました。

 ただし、天災はいつまた起こるか、誰にもわかりません。「これからずっと、ゴジラと付き合っていかなければならない」という最後の台詞は、この映画のメッセージが、これまで発生した阪神大震災東日本大震災、九州・熊本地震の被災者の方々だけでなく、これから発生するであろう未曾有の天災に対して、備え、起こったとしてもお互いに協力して乗り越えていこう、というメッセージなのかなと思いました。

 で、話がずれるんですが、事前によく見ていたような、「キャッチーな主題歌とか恋愛要素とかなくても売れるものは作れるんだよ!」というのは、なんだか的外れに感じましたね……。いや、言ってることは正しいとは思うんですけど、シン・ゴジラはたまたま、「弁当箱に必要なものを詰めていてったら余分なおかずが入るところがなくなった」だけで、もし庵野総監督より100倍くらい構成が上手い人がいたら、多分そういうのも入ってると思うんですよね。そういう部分も、ないことはなかったし。だから、シン・ゴジラという映画を持ち上げて「どうだ今の邦画界よ、これが面白い映画作りだ!」と言い出すのは、うーん、いまいち的外れかなぁ、と思いました。

 

 もうちょっと書きたいことがあったんですが、あんまりまとまらなかったので、とりあえず以上。