「君、影薄いね」と貴方は言った

ネットの片隅に生きるだらだらしたアラサーブログ

ある少女の思い出を話そう。あるいはOne Shotというゲームについて

 ある少女の思い出話をしよう。

 私がその少女と出会ったのは、一年前だったか、二年前だったか……とにかく、夏の暑い日、確かお盆休みだったはずだから、ちょうど、今くらいの時期ということになる。

 

 ああ、その前にひとつ。

 これから話すことは、「One Shot」というゲームの、とても重大な内容を含んでいる。

 もしも、君にこのゲームをプレイするつもりがあるのであれば、今すぐにSteamでOne Shotを購入して、プレイしてから読み進めてほしい。

https://store.steampowered.com/app/420530/OneShot/?l=japanese

 

 大体、10時間くらいで終わる。

 戦闘は一切なくて、ごく簡単な謎解きをしながら進める話だ。

 別にどちらでもいいが、もし、この思い出話を見てから買おうか買うまいか決めようと思っているのであれば、まずは買ってプレイしてみてからの方がいいかもしれない。何せ、何の先入観も持たずにプレイできる機会は、人生でたったの一度きり――それこそ、”One Shot”なのだから。

 

※※※※※※

 

 さて、改めて、少女の思い出話をするとしよう。

 最初に言っておくけれど、これは本当にただの思い出話だ。

 ただ、なんというか……彼女と過ごした10時間は、私に特別な爪痕を残すことになった。その痕は、自分で思ったより深くついていたようで、今でもふと、彼女のことを思い出すことがある。だから、彼女と出会った何周年目かに、こうして思い出話を書き残しておこうと思ったのだ。

 

 まずは、”彼女”がどんな人物かを書いていこう。

 名前は「ニコ」。近頃は、寄る年波のせいか名前もおぼろげにしか思い出せなかったが、これを書いていたら思い出した。ニコは、二足歩行の猫としか言いようがない外観をしている、いわゆる獣人の女の子だ。とはいっても、彼女が暮らしていた世界では、それが一般的な「人間」らしい。年は、詳しくは知らないけれど、多分10かそこらだろう。自分のことを「ミー」と呼んでいて、とても特徴があるように思う。彼女の世界では、それが一般的なのだろうか? もしもまた会えたなら、そういう話も聞いてみたい。彼女の世界は、どうやら牧歌的な世界らしく、秋になると、ニコが見えなくなってしまうほどの金色の稲穂が、一面に広がり、たいそう綺麗だそうだ。

 私と彼女は、二人一緒に、滅亡に瀕したとある世界を救うために旅をした。

 彼女は、生身の身体で。私は、One Shotというゲームを通じて、彼女を導く”神さま”として。だから、彼女は私の顔は知らないだろう。

 私の体感からすればたった十数時間だったけれど、もしかしたら、生身の彼女からすれば、もっと長い時間だったかもしれない。ともあれ、彼女は幼いながらも、滅亡の危機に瀕した世界をなんとか救おうと、気丈に振る舞い、最後まで世界を旅した。その間に様々な出会い、多くの出来事があって、結果的に、私達はそれぞれの世界に帰ることになった。

 ……本当に、振り返るとなんとも味気ない話だ。もう少し、ドラマチックに表現してもいいような気がするが、まぁ、それが彼女との思い出のすべてだ。

 さて、このOne Shotというゲーム――そう、”ゲーム”には、現実と虚構の世界の境界を曖昧にするようなギミックが多く存在している。言ってしまえば、この「滅亡に瀕した世界」というのは、とある、既に滅亡した世界を丸々コピーしたデータの世界で、それを管理するワールドコンピュータ(だったかな?)がバグで暴走したので、それを修理しに行くという話なのだ。

 この物語には、ひとつのテーマがある。それは、「データが自意識を持ったとき、それは生命足り得るか?」というテーマだ。作中のデータ人格たちは、大部分が決められた以上のことはできない、ただの「プログラム」だ。しかし、中には自我を獲得したキャラクターもいる。彼らはデータの世界の中で、あるものは滅亡を受け入れながら、あるものは世界を救おうと足掻きながら生きている。

 データ人格が自我を獲得するためには、根気よくこれと向き合い、愛してあげることが必要だ、と、作中で語られる。それには、長い時間が必要だ、とも。

 様々な出来事があって、ニコはワールドコンピュータと向き合い、これと和解した。世界には平和が訪れ、バグは修復され、ハッピーエンド。私とニコは最後に別れの言葉を交わして――彼女は、”ゲームの枠を超えて”(本当に、ウィンドウの枠から抜け出して)自分の世界へと帰っていく。

 それ以降、ゲームを再び起動しても、二度と”彼女”にあうことはできなくなる。当然だ、彼女は自分の世界へと帰ったのだから。

 

※※※※※※

 

 さて、そろそろ話を締めるとしよう。

 私が、なぜ、こうして彼女との思い出を書き残そうと思ったのか。なぜ、ニコというゲームの中の登場人物を、「彼女」と言うのか。なぜ、「レビュー」や「感想」ではなく「思い出話」というのか。

 それは、私が、「ニコという少女がどこかで生きている」と信じているからだ。

 今でも、ふと、彼女のことを考えることがある。車を運転しているとき、家でぼーっとしているとき。彼女も、自分の世界で、元気にしているだろうか、と。彼女も同じように、夏の暑い日、時間にしてみれば10時間程度、一緒に旅した仲でしかなかったが、私を思い出す時があるだろうか、と。

 きっと、私がそうであるように、彼女も成長するにつれ、段々と記憶がおぼろげになって、いずれ、あのときの冒険を思い出すこともなくなるだろう。別にそれならそれで構わないし、私もいずれは忘れてしまうだろう。しかし、この感覚まで忘れてしまうのはなんとなくもったいないような気がして、こうしてブログを書き残すことにしたのである。

 

 なんと言えばいいか。

 要するに、とても簡単に言うと、私は、このゲームを”愛した”ということなのだろう。愛して、長い時間をかけて向き合い、ニコという一個の人格が「どこかに存在している」と信じたのだ。そう信じたことで、虚構と現実の境界が溶け合い、ニコという存在に、生命が与えられたのだ(という言い方もおかしいが)。

 

 まぁ、なんというか。

 ともかく、私は、このゲームによって啓蒙されたのだ。「所詮は創作物」と割り切ることは簡単だが、少しばかり「信じる」ことで、虚構と現実の境界を超え、「創作」に「命」を与えることができる。しかも、創作する側がではなく、創作の受け手が、だ。これは無産オタクの私にとっては、少しばかり驚きのある発想だった。

 このゲームが投げかけるテーマは、私という存在に爪痕を残したというのは、つまりそういうことだ。私は考え方を変えられた。

 

 信じることで、人はあらゆるものを簡単に生み出せる。

 ……どうも、現実と虚構の区別がつかない妄想癖のような物言いにしかならなくて締まらないが。私はそれをとても素晴らしいことだと、彼女を思い出すたびに、思うのである。

エデンとか

 いやまぁすぐにストーリー的な事はわかるんだけど、妄想してる期間が一番楽しいなーってことで。
 別にふせったーとか使えばいいんだろうけど、後でログを取り出しやすいのでブログ使っちゃうんだよね。
 
 
 
 
 
↓↓↓↓エデン↓↓↓↓
 
 
 
 
 
 希望の園エデンについて、あれやこれやと妄想する期間なので適当に。
 まず、ラスボスはエデン(FF8召喚獣)であろう。
 これまでの8人レイドは、どれもラスボスの名前をそのままとっていたので、今回もそうだと思われる。なんかのインタビューから「属性を取り戻す戦い」だということなので、相手は罪喰いか、それに類するものであろう。

 

 さて、ごく一部でだが、「アーモロートの3ボスであるメガセリオンの姿が、FF13のボスである顔がないバルトアンデルスに似ている」という話があった。実際比較してみたところ、うーん、似てる……かなぁ……? まぁ、パーツは結構似ているとは思う。
 漆黒にFF13のモチーフ(後述)が多少含まれていると感じているので、このメガセリオンの姿も(強引だが)FF13を匂わせるモチーフなのかもしれない。であるならば、エデンもまた、FF13要素を含むストーリーやボスがでてくる……かも?

■なんとなくふわっとにてるな~的な部分とか妄想とか
・人類が(ほぼ)淘汰された広大な大地を、強大な存在(FF13ではファルシFF14では大罪喰い)が支配している
・罪喰い化とシ骸化(共に眷属化と考えられる)
・アーモロート3ボスのメガセリオンの姿(顔のないバルトアンデルス?)
  →事実かどうかは未確認なのでなんともだが、FF8デバッグモードでは、エデン(召喚獣)のところにバルトアンデルスという記述があるらしい(未確認)(FFWiki情報)。
FF13にもファルシ=エデンがいる(いるといっても、13では「聖府首都エデン」という地名としてしか出てこないが)

 上記の辺りから、
 
・罪喰いになる前、繭に包まれる=都市が丸ごと繭(コクーン)に包まれ、罪喰い化した都市が舞台なのでは?(完全に妄想)
 
 みたいなね。
 
 ちなみに、エキスパIDのアカデメイア(だったか?)のボスがFF8のガーディアンフォースだったので、ちょっとFF8のGFの設定もさらってみたところ、

 

G.F.は特定の力場に存在するエネルギー生命体
・ジャンクションすることで、媒介者を通じて実体化できる
・媒介者は脳内にG.F.の居場所を作るため、一定の記憶が失われる

 

 とあった。
 これっていわゆる「テンパード化」に似てないかな?
 1つ目はともかく、召喚者を通じて現世に実体化するところはそのままだし、「脳内にG.F.が居場所を作るため、記憶が失われる」というのは、要するに「特定の存在が、脳に居座る=居座られた分だけ、思考が専有される」ということなのでは? つまり、蛮神を最優先して行動するようになるのは、分割後の人類の脳が小さいので(?)、「蛮神」という存在が脳を圧迫するほどの情報量だからなのでは?
 
 アカデメイアのボスは「想像を創造したもの」だったけど、そうなってくると前にも触れた通り、ゾディアークが本当にアシエンが造ったものだったかどうかは疑わしい。ゾディアーク(高次元エネルギー生命体)が最初にあって、それを実体化させるためにアシエンが利用されたのでは? その「きっかけ」の記憶は、ゾディアークの存在が脳を圧迫することによって失われてしまったのでは?

 

 ちなみに、エデン自体はワールドオブファイナルファンタジーとかいうFFGOみたいなゲームにも出てくるらしいけど、そのゲームだと「起きていると外の世界(?)に繋がってしまうため、普段は眠っている(バラムガーデンとして使われている)」らしい。8の演出からみても、どうやら普段は別の世界(惑星?)みたいなところにいる存在のようなので、なんかそういう感じの演出があるかもね。

 

 等など……。

 

 こういうの残してると全然違ったときに恥ずかしいんだけど、まぁ、妄想するのは自由だからさ!
 そもそも、こういう予想当たったこと一回もないけどね! というわけでチャオ!

FF14の今後とか妄想的な

 そういえば、また追記しようと思ってたことを思い出したんですが、もう前の記事がクソ長いんで改めて。
 
 
 
 
↓↓↓ネタバレ↓↓↓
 
 
 
 
 
FF14の今後
 これはもう完全に「ぼくの考えた最強のFF14のこれから」なんで与太話なんですが、今後の14の方向性としては、大型アプデ2~3後に大きなアプデは終了という方向でいくのかなと。
 今残っている部分というとアシエン・エディリプスとゼノス、ゾディアーク、あとハイデリンを作った14人委員会の離脱した1人ということになるんですが、このうち、エディリプス、というかアシエンに関しては、今後はもう本流には入ってこないかなぁという印象になってしまいました。漆黒の5.5辺りで死にそう。
 で、次は暁の面々が原初世界に帰還して帝国との戦い~ということになると思うので、これが次の大型パッチになるのかな?
 帝国との戦いが終わったら、もうやることねえじゃん! という感じなんですが、今回でアシエンすらも「英雄の救いの手」の対象となった可能性もあるんですよね。いや、過去に滅んだ文明をどうやって救済すんねん無理でしょw と普通はなるんですが、そこはあれがあるので。時間跳躍技術が。
 今回、エメトセルクが水晶公をさらったのは、水晶公の持つ技術、とりわけ時間跳躍を取得するためだと思われます。エメトセルクは、なぜこの技術に注目したのか。まぁ、アシエンの目的のためというのもあるでしょうが、アシエン種が滅ぶ原因となった「唐突に訪れた星の異変」を取り除くために時間跳躍を行った可能性もないことはないのかな、と。
 14は、思ったより丁寧にシナリオに伏線を散らしている、回収ができることは今回よくわかったので、この「唐突に訪れた異変」も、もしかしたら将来のパッチへの伏線なのかな~、みたいなね。
 アシエンたちは、自分たちがゾディアークを作ったと考えているようですが、それすら本当かどうか。ゾディアークという強力な存在のイデア設計がアシエンの叡智を集めてようやく完成するものなのであれば、ハイデリンはどうやって作られたのか疑問なんでね。
 いずれにせよ、こうしたフックが出てきた以上、そこを舞台にした冒険はありえるかな~と。幸いにして、時間跳躍理論を構築した天才ことシドは、まだエオルゼアにいるわけです。シドが今回のヒカセンの冒険を聞いたら、早速時間跳躍技術の開発に着手するんじゃないかな、とかね。
 個人的には、ここまで来るとゼノスとの決着がFF14の終わりかなと思っているので、宣言通り、ゾディアークを取り込んだゼノスとハイデリンの力を得たヒカセンの光と闇の代理戦争みたいになって” お わ り ”(デカ文字)が表示されてFin、って感じなのかな~、などと空想して楽しみました(小学生)。

漆黒のヴィランズ感想とか

漆黒のヴィランズ、個人的ポイント(いいも悪いも)

当然ですが、ネタバレを含みます。

  

  

 

 ↓↓↓↓ネタバレ↓↓↓↓

 

 

 
■テーマ
 何をおいてもこれ。
 暗黒ジョブクエで提示されるのは、「誰かに手を差し伸べても、誰かから手を差し伸べられることはない、英雄の「個」としての苦悩」。そして、「常に前に進み続けることで、道を同じくしていた人たちさえもいつしか置き去りにしてしまう英雄の孤独」。

 漆黒はこうしたテーマを引き継いでおり、そのアンサーを提示する。即ち、「英雄が苦悩し、立ち止まったとき、誰が英雄を助けるか?」という答えだ。

 誰かに手を差し伸べ続けた英雄は、ただ利用されただけなのか? 
 常に先頭を歩き続ける英雄の隣には、誰も並び立つことはできない。なら、英雄は孤独なのか?

 答えは――否だ。
 英雄が手を差し伸べる姿は、確かに、人々の胸に希望として刻まれた。

 確かに、力なき人々は、英雄の隣に並び立つことはできないかもしれない。

 だが、それでも。

 英雄に希望を見出した人々は、その場で立ち止まることはしなかったのだ。
 人によって、歩く速度に差はあったとしても。彼らは確かに足を止めることなく歩き続け――そして、英雄が苦悩し、立ち止まったとき、その背に追いつき、彼(彼女)を支え、助け、背中を押してくれたのである。

 英雄は決して孤独ではなかった。
 他ならぬ英雄自身が、暗黒ジョブクエ70で言っている。

 例え、人々の先を行くことで、いつしか周囲に誰もいなくなったとしても。
 それでも、振り返ればきっと、孤独ではない。
 心につれてきたものがある……と。

■タンクロールクエ
 この「道が別れたとしても、英雄は決して孤独ではない」というテーマは、タンクロールクエや暗黒ジョブ70後のシドゥルグの台詞でも表現されている。

 ロールクエでは、最後の別れ際、「きっと一生、お前との冒険を忘れない」(意訳)という台詞で。
 暗黒ジョブ70では、最後の「お前には感謝しているから、今回も力になってやりたいと思ったんだ」(意訳)という台詞で。

■ミストが使っていたのは創造魔法?
 今回、アシエン種(?)が創造魔法と呼ばれるものを使うことが明かされたが、実は暗黒ジョブクエでも似たような現象を起こす人物がいる。それは、暗黒ジョブクエ70のキーキャラであるミストだ。

 ミストは、「その人が望む人物」を、ヒカセンのエーテルを使うことで作ることが出来た。これは、一種の創造魔法であろう。

 そもそも、ミスト自身がヒカセンのエーテルから作られた「ヒカセンがもう一度会いたかった誰か」である。ともすればフレイも「ヒカセンが望む、ヒカセンの理解者」だったのかもしれない。これらを生み出したヒカセンは、つまり「(無意識だが)創造魔法が使える」ということである。

 そう考えると、アシエン種(?)に関する設定は、少なくともイシュガルドの時点でかなり詳細に存在したのであろう(まぁ当然といえば当然だが)。

■エメトセルクの名前
 冒険の途中でエメトセルクに話しかけられるタイミングが数度あり、そのときに話しかけると重要な情報を教えてくれるというのは、結構有名な話である。

 その会話の中で、「エメトセルクの名前は?」と問いかける選択肢がある。
 その時、エメトセルクは「いつかときが来て、お前はそれを知るかもしれないし、知らないまま終わるかも……だ」と返答する。

 これはまだ、エメトセルクとヒカセンたちが、歩み寄れる可能性があったときの他愛もない会話。
 そのときがきたら、もしかしたらエメトセルクの、本当の名前を知ることになるのかもしれない……からの、

→「己が名を、ハーデス!」

 この流れ、あまりにも切ない。もう決して歩み寄れはしない、だからこそ、かつて問うた名前を知ることになる。そこにあるのは、強い決別の意思……という流れ。好き。

■漆黒のヴィランズは誰だったのか?
 漆黒のヴィランズとは、誰だったのか? 個人的な見解ではあるが、それはヒカセンであり、アシエンでもある。

 エメトセルクが言う通り、最後の戦いは、すべての世界の歴史の分岐点だった。勝った方の歴史が本流となり、負けた方はその流れに逆らうもの=ヴィランズになるというわけである。

 今回、エメトセルクとヒカセンは対象の位置にいた。
 光の加護を受けながらも、闇を取り戻す闇の戦士として、第一世界の英雄となったヒカセン。彼(彼女)は人々の未来を守るため、常に時代の先頭で戦い、道を切り開いてきた。

 対して、エメトセルクは闇の加護を受けるアシエンとして、かつていた人々のために戦い続けている存在である。「過去」のために戦うアシエンは、闇という「動」を司る力を持ちながら、実は未来ではなく過去を想い続ける停滞した存在である。

 同じように、守るべき人々のために戦いながら、決定的に違う対称的な二人。
その二人の戦いの結果、誰がヴィランズとなったのかは、プレイヤーがご存知の通りである。

ヴィランズのモチーフとなったFF作品

 ナバスアレンを目指す部分はFF10、生き残った人類が箱庭で細々と生きているところや、荒廃した世界を旅する部分はFF13をモチーフにしていたのかなと。FF8要素は思ったより感じなかったけど、確かミンフィリア(偽)のシーンのBGMとしてアルテミシアのテーマがかかっていたような気がするので(曖昧)、14的な解釈ではミンフィリア(元祖)の在り方が8の魔女的なものだということなのかな?

 ちなみに、FFWikiでは魔女とは次のようなものらしい。
>古来から途絶えることなく存在する、特別な力を継承した女性で、真の魔法を使える唯一の存在。
>永遠の命を持つわけではなく、寿命は人間と同程度だが、誰かに魔女の力を継承させないと死ぬことができない。
>魔女の力は、女性なら誰でもが継承できるというわけではなく、魔女の巨大な力を宿すためのキャパシティと相性を兼ね備えた者に限られる。
>また魔女の力は、両者の意思とは関係なく勝手に継承されてしまう場合(イデア⇒リノア)と、引き受ける側の意思で継承される場合(アルティミシアイデアやアデル⇒リノア)がある。

 ちなみに、FF8のラスボスである魔女アルテミシアは「時間圧縮」を計画している。これは、

>なぞ。どのような状態になるか不明。あらゆる「いま」が圧縮されてしまうと考えられている。全ての時代の魔女の力が合わさって魔女はとてつもない力を得ることが予想される。それに対して、普通の人間がどうなるのかは分からない。

 今回語られた、アシエンの「次元圧縮」も似たような目的を持っていたことを考えると、アシエンの在り方というものもFF8リスペクトの一部であるのかもしれない。

■ヒカセン

 ヤミセンの魂が合わさることで光のゲロが収まるのは、魂の統合によって魂の器の許容量が高まったからだろうか?

 魂の統合を果たすということは、つまり「霊災」によって引き起こされる人類のステップアップと同義だと思われる。第八霊災が未然に防がれた今、アシエン種(?)に最も近い人間はヒカセンになったのだろうか?

■ミンフィリア(リーン)

 同様に、リーンもまた、魂の統合を果たした状態なのだろうか? 本来、魂の統合は原初世界の住人以外が行われることがない。しかし、第一世界の住人として統合が行われたリーンという存在は、あの世界においては特異点なのかもしれない。

■マップとか

 今回はどことなく「エオルゼアの各地形を想起させる地形があってよかったね。と思っていたら、実際、各地域が元になっているらしい。ただ、これは順序が逆で、霊災によって地形が大きく変化したのが原初世界であり、「元々の地形」には、第一世界の方が近いのであろう。

 ■79IDのルービックキューブ
お前メギド72で見たわ!!

■急にクリタワの音楽がきたので

すき

■オタクだから

システム的な部分を演出に絡められると無条件でしゅき……となってしまう。

■「稀人よ!」

デーデンデデーンデーンデデーンデーン(BGM)

すき

待ち時間15分

きらい

■「アシエンのことを知ったほうがいいと思う」
なぜなら、彼女は兵器ではないからだ。

FGOだと「何だこいつサイコパスか?」と思った流れが、妙にスマートに受け入れられることについて、一考の余地があると思う。

■IDが死ぬほどクソ
最高のシナリオ、最高のBGMから繰り出されるクソみてぇなID。これ考えたやつ誰? 反省しろ。

■ラストバトルのアルフィノとエメとセルクの問答

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以上。

2018年を振り返り、2019年の目標を立てる

 2018年は、一言でいえば”冴えない”年だった。
 何がどう冴えなかった、と具体的に言えるようなことはない。何か特別なイベントが発生して気分が落ち込んだとか、体調が優れなかったとか、そういうわけではない。ただ、何となく過ごして、何となく一年が終わりを迎えた、強いていえば「何もなかった」一年だった。
 
 言葉にすると大したことがないように聞こえる。
 しかし、この状態が続けば、私の精神は近い内に死ぬだろう。
 
 何故、何もなかったのか。それはひとえに「行動を起こさなかったから」からだ。
 本を読む、音楽を聴く、映像を見る――およそ、そうした行為を、2018年は何一つ起こさなかった。やっていたことといえば、だらだらとソーシャルゲームをやっていた程度である(断っておくが、別にソーシャルゲームをやっていたことが悪いとは思ってはいない)。

 何故、行動を起こさなかったのか。
 それは、「何事にも興味がわかなかったから」だ。
 もちろん、「あれが面白そうだ」「これが面白そうだ」と思うことはある。しかし、実際に行動を起こして、それを「楽しむ」(=体験する)ことまではしなかった。積極的に自分から取り組まないのだから、特別なことなど起こりようもない。
 
 とにかく、様々なことを「やっても無意味だな」と捉えてしまうようになった1年だった。
 無意味というのはつまり、感受性が摩耗し、コンテンツを摂取したところで、「それが何の足しになるのだ」と思ってしまうような。何かをやろうとしたところで、「こんなことをしたところで、これが誰に影響を与えるわけでもない」と感じてしまうような。そういった空虚さとでも言えば良いだろうか。
 
「何をやっても無駄だからやらない」と思うようになると、何に対しても無気力になる。何故なら、それを突き詰めていくと、そもそも生きていること自体にさほど意味を感じなくなるからだ。
 例えば、「ブログを書くということを、無駄だからやめる」とする。これは、「無駄だから」というよりは「自分語りが多く、誰かが読むに値するものを書けないから」ということだが、ともあれ「「書きたいことはあれど、書かない」ということを実行したとする。

 そうすると、何が起こるか。
「書かない」のだから、思考を形にする必要がなくなる。そもそも、思考をまとめる必要もなくなるし、自分自身の感情の機微を切り出し、どうにかして文章で表現しようという努力の必要もなくなる。

 テレビを見るにせよ、食事をするにせよ、一事が万事その調子で、何に対しても興味がなくなると、最終的に残るのは「何事にも疎い、ただ生きるだけの人」である。果たして、そんなただ生きているだけのような人間が、生き続ける意味があるだろうか?

 もちろん、何かを「切り捨てる」という明確な意思があるのなら別だ。興味の対象を取捨選択することは、悪いことではない。しかし、私の場合、その根底にあるのは「無気力」だった。

年齢を経たことによる影響もあるのだろう。よく、中年が料理や写真など、趣味に力を入れるようになるのと一緒である。私も、そういう年頃になったということだろう。
 
 そんなわけで、2019年は、まずテレビを付けるところからはじめようと思っている。
 いかにもハードルが低い目標だが、死んだものが生き返るにはこのレベルから始めるのがやっとなのだ。それは、このブログを書き始めたのが12月31日で、投稿したのが1月4日なことからも明らかだろう。とにかく、2019年は「やり始める」「やり遂げる」を目指し、死にかけの精神をなんとか生きながらえさせたいと思う。

FGOについて考える

■まえがき
 2018年も12月となり、今年も残すところ、あと僅かである。皆さんはいかがお過ごしだろうか?

 

 ふと今年を振り返ってみると、まったくブログを書いていないことに気がついた。
 そこで、今回は大人気ソーシャルゲーム、『Fate/Grand Order』(以下、FGO)をテーマに、ブログを書いてみようと思う。

 昔ながらの私のファンの方(いない)には、私がFGOについてブログで取り上げることを驚く方もいらっしゃるかもしれない。何故なら、私は常日頃、FGOをボロクソに貶し、怒りを露わにしているからである。

 誤解のないように言っておくが、「私が実は、FGOを内心で高く評価していた」ということは一切ない。私がFGOを今回取り上げたのは、ひとえに、自分にとってどうしようもない無価値なものを再解釈し、そこに全く新しい価値を見出すことが、告白実行委員会を見て以来の私の趣味となっているからである。

 

 ところで、書き上がってから読み返してみたのだが、さっぱり面白い部分がなかったので、年の瀬に暇を持て余して仕方のない方以外はブラウザを閉じることをおすすめしたい。

 

■はじめに

 

 まず最初に、FGOの何について解釈を行っていくのか、明言しておく。
 今回行うのは、FGOのストーリー部分についての解釈である。
 具体的には、3つの章で構成される「幸福論」と、1つの「妄想」でる。
  
 本来であれば、私はこうした解釈・評価を好まない。
 何故ならば、壮大なタペストリーの一部分だけに着目し、「あれが良い」「これがダメ」と評価することは、まったくナンセンスだからである。
 
 現在のFGOのストーリー(ここでは第二部を指す)は、その全体像を把握できる段階にない。この段階で物語の是非を論じたり、あるいは解釈を行うことは、後の物語が明らかになった時、冷静な視点でそれを受け止めることができなくなる可能性がある。
 
 しかしながら、同時に、今、この瞬間しか味わえない楽しみというものもある。
 それは要するに、ヴィーナスの欠けた腕に浪漫を見出すような――つまり、全体像が不明瞭だからこそ行える、無責任な放言や妄想、そういった類の楽しみ方だ。普段であればこうしたことは自分の内側に留めておくのだが、まぁたまには、マッチに灯った揺らめく炎を、ただぼうっと眺めるような、そんな一瞬の儚い楽しみを、文章として書き残しておくのもいいだろう。
 
FGO的『幸福論』・1 ―選び取ること―


 私は、FGO、特に第二部の根底に流れるテーマは、「人の幸せ」にあると思っている。そして、そのテーマに繋がるキーワードのひとつめが、「選び取ること」だ。これは、「自分の世界を生かすために、他者の世界を滅ぼす」という主人公たちの選択もさることながら、「異聞帯」という設定や、そこに暮らす人々からも見て取れる。 

 

 多くの方はご存知だろうが、異聞帯とは「可能性の閉じた歴史」のことを指す。
 つまり、異聞帯とは滅亡という結末以外をもたない、歴史の方向性を選び取れない世界のことである。

 

 また、そこに暮らす人々も、「選べない」不自由な生活を強いられていることが多い。

 

 これまでの異文帯では、そのほとんどが共同体単位で隔絶されており、共同体同士のつながりというものが薄い、あるいは見られなかった。これはつまり、「共同体の中でしか生きられない」ということである。誰もが顔見知りであり、一度ついた評判が常につきまとう――そんな世界から逃げることすら選択できないのは、いかにも不自由で、息苦しい。

 

FGO的『幸福論』・2 ―識ること―

 

 しかし、そうした、私たちから見れば不自由で息苦しい世界に生きる人々が、異聞帯では幸せに生活しているのである。ロシアの住民は幸せとは言えなかったかもしれない。それでも、世界そのものを疑い、否定するような人間は存在しなかった。

 

 考えてみれば当然で、彼らにとってはその世界が「当たり前」であり、それ以外の世界など知りようもないのだ。であれば、たとえそこがどんな世界であったとしても順応して生きる他ない。

 

 逆に、「別の生き方もある」などと教えるほうが、酷なことだろう。何故なら、他者の暮らしを知ることは、他者と自分との「差」を認識することに繋がるからである。その差が、自分にとって優位であるならまだしも、劣位であった場合には、自分が「不幸」であることを知ってしまうことになるからだ。

 

 何も知らず、満足感の中で生きること。
 自分には手に入らないものがあると識り、辛く、苦しい想いをしながら生きること。
 皆様は、どちらの方が「幸せ」だと思うだろうか?
 
FGO的『幸福論』・3 ―幸福論―

 

 FGOは、「例え辛く、苦しい道を歩むことになっても、識ることが重要だ」と説いている。想像でしかないが、FGO的な「幸福」とは、「選択」にあるのだろう。細かな説明が難しいので、一部で揶揄される「マシュの言動」を例にとって説明したい。

 

 FGOの二部二章で、マシュが「人はもっと生きられるのに、何故若くして死ぬことを受け入れるのか?」と異聞帯の住民に問うシーンがある。これは、FGOアンチによく取り上げられる、問題あるシーンのひとつである。

 

 何が問題と言われているのか?

 

 それは、マシュ自身が、「限りある生命しか持たない」キャラクターだったからだ。
 第一部後半、マシュは自らの命に先がないことを悟りつつ、それでも戦いに身を投じた。「永遠に生きられるとしても、わたしは永遠なんて欲しくない」――そう言って、自らの限りある生命を肯定したマシュが、同じく若くして命を散らそうとする存在に対して、「普通はもっと長生きできるのに死ぬなんておかしい」というようなことを言い出した。これに対して、「発言が矛盾しているのでは?」と言われているのだ。

 

 しかし、マシュと北欧の住民とでは、大きく異なる点がある。

 

 それは、北欧の住民が「長く生きられることなど知らず、若くして死ぬことを当然だと受け入れている」のに対して、マシュは自らの死期を悟り、何がしかの手段を講じれば、もう少し自らの命を長らえられると識った上で、”自らの意思で”自らの死を選択しているということである。

 

 繰り返しになるが、ただ「識る」ことが、幸福に繋がるわけではない。だが、「識る」ことで、人は『選択』することが可能になる。その『選択できる』という状態こそが重要であり、どのような選択であろうと、『自らの意思で決定する』ことこそが、人間として正しい、幸福なあり方だと、FGOは言っているのだと私は考える。

 

■ヲタクの妄想

 

 ここからはFGOの第二部ストーリーについて、妄想を述べていく。
 こうした妄想は、大体、次の章がリリースされれば完全に否定されるのが常である。また、そもそも作りて側がそこまで考えていないことも多い。ただ、現時点での「ぼくのかんがえたさいきょうのFGO」を披露するのもたまにはいいかと思い、ここに書き残しておく次第である。

 

 さて、FGOの第二部について個人的にもっとも気になる点といえば、サイコパス主人公である。主人公は、自らの世界を存続させるため、他の世界を滅ぼしていくわけだが、何故か現地民と交流したがる。作中でも指摘されていたが、どうせ滅ぼすのであれば現地民と交流する必要は一切ない。しかし、「相手のことを知って覚えておくことが、滅ぼす相手への礼儀」のような意味不明な理屈で、現地民にたっぷり思い入れを作ってから、その世界を滅ぼすのである。

 

 はっきり言って完全にサイコパスで、全く理解できないわけだが、その謎理論を考える最中、ふとした閃きが頭をよぎった。

 

 それは、「異聞帯は本当に滅びるのか?」ということである。
 
 大前提として、異聞帯は滅びゆく世界である。説明によれば、異聞帯では進化の先が不動のため、「面白みがない」と判断され、宇宙的なエネルギーの供給がストップされ、次第に滅ぶということらしい(正直、全くわからない)。

 

 逆に、汎人類史は様々な可能性を秘めた世界であり、未来は常に不確定、5キロメートルinミストである。どうやら、世界にとってはそちらの方が好ましいらしく、宇宙的なエネルギーはそちらの方に注入されるから100年経っても大丈夫ということらしい(正直、全くわからない)。

 

 異聞帯は、この「宇宙的なエネルギー」に満ち溢れた汎人類宇宙に乗り換えすることで、エネルギー枯渇という「滅び」を回避したいという狙いを持っている。その企てを阻止することは、「滅びゆく宇宙」に異聞帯を送り返すことに他ならず、結果として異聞帯は滅びるわけである。

 

 しかし、
 しかしだ。

 本当に、企みを阻止された異聞帯は滅びるのだろうか?

 

異世界を滅ぼす」というのは、そう言われているだけである。「元々、滅びる予定だった世界なので、元の世界に送り返せば結果として滅びる」――ということなのだろう。だが、誰もそれを見たものはいない。

 

 そして、よく考えてほしいのだが……企みを阻止され、元の世界へ送り返される異聞帯は、しかし、”最初とは決定的に状況が異なっている”のではないだろうか?

 

 異聞帯は、長命な統治者によって支配され、世界の在り方はその統治者によって決定されていた。統治者は不滅であり、故に、世界の在り方は永遠に変わらず、結果として世界に可能性は存在しなかった。

 

 しかし、汎人類史との闘争の結果、”世界の在り方を決定していた統治者は滅び”、その世界の在り方を規定するものはいなくなった。そして、人々は、それまで識ることのなかったものを――音楽を、詩歌を、春の訪れを手に入れた。

 

 元の世界のままであれば、確かに滅びを待つばかりであったろう。
 だが、もはや異聞帯は、元々あった世界とは似ても似つかない世界に変貌した。

 

 そして、覚えているだろうか?
 英霊の存在しなかった世界が、ただ数人の”祈り”によって変容したことを。
 世界は変わる。それも、とても簡単に。


 であるならば――これだけの大きな変化がもたらされれば、決まっていたはずの「滅び」という結論が覆らないと、誰が言えるだろうか?

 

 もちろん、これは放言、妄想である。
 それでも、こうした「if」を考え、そうだったらいいのになと思うことを、私はやめられないのである。

好悪の判断基準と不明なアカウント

 前回の件について、少し考えさせられる出来事があり、もう一度書き記しておく。前半は相変わらずの自分のTwitterでの発言を再構成したもの、思うところがあったことは後半に書き記しておく。

※※※ここからTwitterまとめ※※※

 私の「被害者に選ばれたことは偶然だった」という説に対する苛立ちは、概ね「論理的でない」点にあるのだろう。何らかの理屈があっての結果だったとして、その説を採用する人間の発言からは、その理屈を読み取ることができない。多くの言及において、「被害者は自分だったかもしれない」「俺にはわかるが、これは天災や事故の類」という言い方が見られる。しかし、その直観の理解を他者に納得させる理屈がそこにはない。

「本人が行ってきた行為と、今回の事件は分けて考えるべきなのに、多くの人間は混同している」というような説も多い。しかし、私から見れば、被害者に好意的な見方をしすぎて、事実と私的な感情を混同しているように思える。

 いわゆる「身贔屓な見方」はどんな理知的な人間にも存在することを何度も経験から味わって来たので、そうした言質があればあるほど、私の「対象への見方」が厳しくなっていく。

 但しこれは、私はあくまで「そうであろう」という理屈の通る説の方を好ましく思い、採用しているというだけの話に過ぎない。私は「事実」を採用しているわけではない。「理屈が通る」ことが事実ではない。これは肝に命じたいところである。今のところ、事実は誰にもわからない。

 今の段階で言及できることは、あくまで「リスクは等しくあるけど、行為によってそのリスクが増大する可能性はあるから、自分の行為を省みようね。もうリスク増大させた奴は大人しくするか高すぎる防衛コストを支払おうね」という教訓的な話にしかならず、これはどちらの説を採用していても同じだろう。筋道としては正反対であるのに、辿り着く結論が似通っているのは、面白い現象であると思う。

 今は、加害者が残した数少ない書き込みから、誰もが「このときの加害者の心情を答えよ」という国語の問題をといているようなものなのだろう。そこに答えはない。理屈を通すことはできるが、誰もが間違った答えしか出せない。答えがないのだから。

 私は答えを常に欲しているが、この件に対する今の所の正しい答えは、「答えがない」ことを知り、言及しないことなのだろうと思う。

※※※ここまで※※※

※※※ここからTwitterまとめ・2※※※

「ネットウォッチという行為は、詐欺師から身を護るためのログを残す必要悪の行為である」という説は、確かに正しい。でも、俺が眺めたところ、被害者がしていたのは私見を交えた「扇動」だと思う。

 事実から何を読み取るかは受け手側の問題であって、まとめた事実を私見を交えながら紹介するのは公平性がないと思う。無論、まとめ方にも恣意性は出るが。

※※※ここまで※※※

 閑話休題

 さて、私もまた、ネットで話題になるさまざまな事柄を、興味が向くままに追う、所謂ネットウォッチ的な趣味を持っている。特定の話題が盛り上がったとき、キーワードをTwitterクライアントの検索窓に入れて、さまざまな人の言及を見るのはとても楽しい。

 6月30日、土曜日の朝。私がそんな趣味に興じていると、気になるアカウントを発見することができた。

https://twitter.com/hakobun00/

 このアカウントは、その言動や絡む相手から、加害者のTwitterアカウントだったのではないか? と目されているアカウントらしい。事実はわからないが、確かに見たところ、発言に似たような部分が多く見受けられる。

Twitterで加害者と似たような絡み方をされたことがあるが、あれは本人だったのではないか?」と考察するブログはいくつかある。例えば、下記のような。

かつてTwitterにいた「低能先生」とよく似たアカウント
http://lastline.hatenablog.com/entry/2018/06/27/110625

 ここで言及されているアカウントと名前は違うが、おそらく、先程紹介したアカウントも似たような感じなのではないだろうか? ちなみに、hakobun01というアカウントも持っていたようだが、そちらは凍結済みである。その他、情報の取りまとめは下記を参考にして欲しい。

■「低能先生」の生きているTwitterアカウント
https://anond.hatelabo.jp/20180627145801

 このアカウントを眺めていると、次のようなやり取りを発見することができた。何らかの理由でアカウントが凍結されないとも限らないので、画像で貼り付けておく。



 このやりとりを発見したとき、言葉にできない思いが胸に去来した。
 このアカウントが加害者本人であるかどうか、それはわからない。このやり取りから読み取れることは、「このアカウントの持ち主は、ただ「事実」のみをもって好悪の判断を行っている」ということである。

 好悪の基準、善悪の判断、それを定めるのは難しい。相手が強大であれば、何をしても許されるのか。相手が悪人であれば、どんな批判も許されるのか。「相手が強大である」「相手が悪人である」という判断は、誰が行うのか。

 人間が100%正しい理性を持っているのならば、個々の事例ごとにこうした判断を行っても構わないかもしれない。しかし、そうでない以上、絶対的な「事実」を基準とすることは、私は間違っていると思わない。
 そして、事実を基準として考えたとき、多くの人間が「心情」を考慮して「正しい」と判断している出来事が、実のところ、まったく同じ構造をもつ別の事柄に対して「正しくない」と判断されるような、矛盾する面を持っている場合があることに気づくことがある。

 私の話になるが、私は、こうした矛盾を好まない。なので、私は私の基準に照らし合わせて、「その行為が悪である」と判断した場合は、相手が誰であろうと「それはおかしい」と意見を表明することにしている。

 さて、件のアカウントはこう言っている。「書いてないことは明らかではないよ」、と。確かにその通りである。
 重ねていうが、このアカウントが、加害者のものであるかどうか、それはわからない。しかし、その言動などに類似性が見られるのは、確かなようにも思える。

 そんな彼が、件の事件に関する現状を眺めたとき、どう感じるだろうか。どんな批判的な内容にも、どんな同情的な内容にも、「書かれていないことを勝手に読み取るな」と怒るだろうか?

 正直をいうと、私は彼とは似たような思考を持っているのではないか、と考えている。しかし、そうしたシンパシーも、所詮は「思い込み」に過ぎず、正確な判断を誤らせる原因でしかないのであろう。

 以上。